わたしでなく信仰の成長を
くすしき恵み あまねく満ち あるに甲斐なき我をも召し あまつ世継ぎとなしたまえば 誰が漏るべき 主の救いに 世に在る限り 君の栄えと いつくしみとを かたりつたえん
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
こちらの御言葉の私は3つで1つのわたしが大前提でございます。
神様を感じれない時
ありがとうございます。少し前に寝込む程に私の身に不幸がおきまして(笑)ずっと神様を感じれない時間が続いておりました。あ~なんだこれは。どうなってるんだ。。。と。悲壮感と虚無感が募りましてついにはなんと!『我が神 我が神どうして私をお見捨てになったのですか』と、あろうことか全人類の罪を背負われて神から断絶された瞬間のキリストの言葉が頭に浮かんだのです。自分にはこの言葉は触れない。いわば聖地としての自覚は勿論ございますが。しかしながらもこちらの御言葉によって助け手を頂きまして神が共にされない理由が私にあったのだと気付かせて頂いたのであります。細かくは意味がございませんので割愛いたしますが、神様が感じれなくなるその前に、わたしが正しいと憤った瞬間が確かにあったのでございます。こちらが今回の悲壮感と虚無感の原因となります。
神様は自分を正しいとする方とは見捨てたのではなく居たくても居れないのだと自覚を頂けましたのは神様は最初から3つの位格が共にされる神だからで1つの位格が自分が正しいとはされません。故に、正しいことは御座います。だけれど私が正しいとは別。正しい事は成していきます。だけど私が正しい事とは別。究極的には人間は正しさの後に出来た被造物でもあるからで正しさに憩えど正しさを翳すととたんに罪が生きて苦しさが増す聖書通りの性質を持っております。
そこから解る一つの策略なんですが、善を用いても悪を用いても誹謗中傷が止まない理由にサタンの策略の一つという解釈がありまして あらゆる中傷下に人心を置いた上で信仰ではなく感情を用いさせては『自分が正しい』とする事によっての神様との断絶が誹謗中傷の究極目的となっています。『正しい正しくないが目的ではなくて神様との断絶を計る為の計略に善も悪も用いている事が彼らの目的となります』その様な訳でして 結構な酷い目に遭いましてクタクタしましたけど主に在りて元気に戻れました!
^^) _旦~~今はまた主と共に複数的平安を頂いておりますれば ♨ 信仰の大盾とは如何に大盾かを!主に感謝!
創造と誕生の光の瞬き
「私は主の定めについて語ろう。
主は私に言われた。
『あなたはわたしの子。
わたしが今日 あなたを生んだ。
ありがとうございます。私や私の隣人。全ての方の誕生を司っているのは神様だと受け入れる時、わたしは平安と愛の内に憩えます。一切の能力判断や価値判断や人間的主観が。。創造と誕生の光の瞬きには全く必要無いからです。 みなさんが生まれる前も時も後もずっと喜んでいる方が居られます。それが聖書が語り続けている神様です。神は全知全能の方でありますから元々人が何が出来たか出来ないかで人への評価が変わる事はありません。そうではなくて実在に対する神の評価が一番大切なんです。ですから、それがわかりますように神はもうこれ以上神から離れないようにとイエスキリストを贈ってくださいました。
わたしはみなさんの創造と誕生の光の瞬きを神様と共に喜ぶ者で在り続けたいのです。クリスマス時期は特に増しまして御業の輝きと平安と愛の内にありますように。
手放された方
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ありがとうございます。中国かどこかのお話だったのだと思うのですが。。。2人の母が子の親を名乗り出て引き合っている時に子が泣いて痛がった瞬間に手放した方が本当の母親だという逸話を聴いた事がございます。その通りだと思いますが宗教の世界はスピリチュアルの世界や哲学も同じで私の考えこそが真理だと手放さないでいる時には真理ではないと捉える事も出来るのだと思います。イエスキリストも私が真理であり道であり命である。この様に宣言なさいましたがその言葉故に嫉妬に燃えたあらゆる力ある指導者からの制裁に対抗するのではなく手放され、抵抗もされず全て受け入れられ遂には死に迄従われました。真理を想い手放される方こそ真理なのですから、私はこの方が真理であり道であり命であると平安を頂いている次第でございます。
アンチエイジング!
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
ありがとうございます。いよいよ2024年も終わりに近づいて参りました。今年は霊の恵みをたくさん受けましてほんとうに収穫してそれを寄ってくださる方と共に食したいと願えるほどでもありました。それはどのようなものでしょう。主から頂きました信仰の現在地点でございます今は、私は私と居ないという生業に移行しておりまして24時間御霊と共に居る事を望んでいます。一般的にはそうですね。グラスの氷が転がり鳴る音や、潮騒の和音、またはパンが焼き上がり途切れる時に残る匂い、いよいよ木漏れ日とせせらぎの光がせめぎ合う渓流、などなど無数に自分と居ない空間はあってくださると思うのですが私の場合は完全に御霊とただ居たいだけでございます。イエスは自分の十字架を負う前に自分を捨てる事を先に語られました。のは自分を捨てなければクレネ人シモンさんの如く御霊の助けが入らず自分の十字架は負えないとのことでもあると捉えましてそれで自分の十字架を背負って歩みますればとうとう。。もう。。。ゴルゴダの丘で動けなくなる時に、あなたは私とパラダイスにいると語ってくださったと私は捉えておるのであります。主と共に居られた2人の囚人の方も歩いておられたと思います。動けなくて、動かなくなったとき、主は主を仰ぎ見た囚人の1人の方に語られました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」主は真理でありますから真理と共に居るのなら真理以外が私を煩わす事はありえません。私はそこに居ないのですから。。。信仰から出ていない否定も肯定も私の霊は必要としませんので真理である主は私を自由にしてくださいます。わたしが生きているのはわたしではなくパラダイスである主が私を生かしてくださっているのでございます。
その頂いた平安の上でどう働いて使命を全うするかを考えておりまして、どうも口角が下がっているのは人の悪口をさんざん言ってきた人間に現れる特徴だとの流布もございますので、(さんざんかどうかは分かりませんが悪口を心でも唇でも呟いたその数は流布されている方より遥かに私の方が多いのだと思います。)そこでなんとか口角をあげるべくララポート和泉に赴きまして!アンチエイジングにとりあえずとりかかろうとしております。それもこれも口角が下がっていては福音の妨げになるとの覚悟からでありますれば、決して自分に栄光を帰す容姿千番の為では御座いません 。 ^^) _旦~~ほんとうにそこは普通に頑張らせて頂きます。アンチエイジングもたのしいとおもえましたので。
私との交わりを持っていただく全ての方にイエスキリストの平安がひろがります様に。
イライラの理由と対処実践
シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ありがとうございます。本日は私に起こるイライラの原因を書かせて頂こうと思いました。依頼依頼だといいのに(笑)。といいますのも『シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」』とありますように既にどんなに価値の精査に励んだとしましてもサタンの誘惑が今は止む事が無いからですね。イライラしている時は確実に信仰が弱まっておりますが主が祈ってくれていますので信仰自体は無くなる事はありません(ありがとうございます!)。では何故イライラするかの変遷を垣間見ますと私の場合は価値観によります不均衡が心を支配しているからです。ようするに対等に人を視ていないのですね。人は価値が有ると自分で決めた方に手を伸ばす性質に捕らわれ続けるのは創始堕落以来からもうしょうがないので諦めているのですけどその古い性質がまだ息をしていて時に私を苦しめているのでした。最善の工事をお届けする。最善の言葉をお届けする。最善の心の滲み出をお届けする。ここまではいいのですが必ずどんな時でも自他からの価値評価による否定肯定を浴びるのです。もうそれは呪いのようなもので呪いとは自覚も他覚も全て飲み込んでいますからそれこそクリスチャンといいますか人間でどうにか出来るものではありません。このことは御霊が教えてくださいます。もしどうにか出来るのでしたら(禁欲・禁酒・禁煙さんざん自力でやりました(笑)が、、、今も主と共に在って護られております証)それは主の十字架の贖いを無視する事となりますので私の今は担保されなくなってしまいますし、こちらの記事も連ねることは不可能だと存じます。それで具体的に祈りましたあとの主からのこたえではございますが私の場合で恐縮なのですがやはり信仰によります徹底した主権の譲渡以外に古い蛇並びに古い性質の皮を破ることは不可能だと教えてくださいました。東住吉キリスト集会様からの地層形成の学びに始まりまして創造論がとても大切なのは全ての人も自然も糧も人間ではなく神様の作品として自分の眼を用いる時に人間の価値観ではなくて神様の世界観が勝るからでありましてそのとき初めて人は人を価値判断の右目だけでなくて神様の作品として対等として視れるのだと私の場合は信じて実践致しますし適応して全うさせて頂く所存でございます。
この場合の眼は他者がどの様な眼で私を視るかさえも関係なくなりいわば他者が自分を笑っていたとしても自分は対等に笑う他者を視れる恵みに預かれるのでありますから、こちらによりさらに傾斜の緩いドナーもレシピエントも関係なくなり我々は神様の作品ですから対等なのですと桜の木の下でありましてもどこででも2人して居れるのです。創造の主に感謝致します。そして今も生きて働くイエスキリストの御霊と共に永久に恵が全ての方に注がれ続けられますように。
ルックバックの凶刃の方に働いていたもの
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
ありがとうございます。子供の頃はプラモデル作りに没頭してましてプラスチックをどれだけリアルに近づけるかやポリパテ、いやエポキシでしたでしょうか。2種混合のパテなどでどこまで既製品に無い物を作るかなどなどに瞳孔を絞っている時がありました。3等賞を頂いたことが想い出としてあるのですけど。その3等賞がたとえばそれを描く為の12色の色鉛筆の減り具合と例えますとそれ自体を3等賞評価で癒せるのかといいますと、個人差はあるでしょうけど僕の場合は減ったものは増えません(笑)増えないのですけど減ったものでまた何かを描ける可能性もあると思っている人間でまだ使えていない色もあるのだと思います。
ですからルックバックという映画に出て来られた凶刃の方に働いていたのは描いた作品への『評価承認』だけでなく減った色鉛筆への『恐れ』もあるのではないかと推測をしておりました。旧約聖書には恐れるなという言葉は頻繁に出てきますのでこちらの恐れに瞳孔を絞っている次第であります。
では。悪魔は悪魔という言葉はばれているのですけど中々心内の何を用いて何を働かせているかまではばらしません。悪魔の理想は『悪魔は働かない、悪魔は居ないが理想』ですので生きている限りどうこうもかんがえて見続けていけたらと願います。実践からですと『1つだと思っている原因が2つ以上隠れている時に雨漏りも難易度が跳ね上がりました』ので感情より信仰が先立つ時が私の理想となりますが難しく絶えず祈りつつも感情との均衡は大体五分五分位となります。主の平安が全ての方と共にありますように。ありがとうございました。
インガ帝国に挑む
さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
ありがとうございます。インガ帝国に挑むとは因果に挑むという事でもございます。私の生業上どうしても雨漏りの原因と結果を辿らなければなりませんので原因があるので結果が付随する思考に陥りがちとなり罪がそれを捕らえ時に自分も人様も下げ笑うこともあるのですが、イエスキリストははっきりとわたしたちはとの複数形にて因果関係はなく神の栄光がこの人に現れる為の現状だと励ましてくださいます。因果応報、原因も結果も自分で創り、あてがっていく人生だけではなくて、一切を自分で創らないで神の栄光を待ち望む信仰と希望が溢れる歩み方も出来るのですと、イエスの言葉こちらの聖句は教えてくださいます。主よ。初めから解り切っています原因と結果だけを繰り返す人生でしたら何処にも希望を見出す事が出来ない私なのですがそもそもの希望とは原因と結果に縛られないという事でもあるのですね。しばしの時。。。神の栄光の現れによって霊の目が洗われるとも捉えつつ、開かれたこの希望は誰の因果にも縛られることも御座いませんから執り成しの祈りへと続いていけるのだとも信じます。その祈りの香り先は専ら娘の独立生活への祝福に向かい具現化されておりますので感謝です。
そのような訳ですので何の為に生きるのかというご質問はご質問自体が間違ってはいないのですが呪われているという解釈にも至れます。本来はそのような原因を探さなければならない質問自体が無い世界だったという考え方でもありますので妬みや嫉妬も同じで私に貧しさが必要であの方には富が必要と信仰による神様の目からの必要を先に覚えますと真逆でありましても嫉妬も蔑みも働く機会を失っていってくれています。『我らの日用の糧を与えてください』また『わたしの恵みはあなたに十分』なのですから、そうしていつも皆様に神様の平安がありますように。ありがとうございました。
スピリチュアル集会に参加させて頂きました
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
ありがとうございます。スピリチュアル集会への招きを頂きまして参加させて頂きました。ありがとうございました。とても熱心にメッセージを聴かれる交わりの中に在れました事、とても感謝しております。<(_ _)>そこでキリストの救いにつきまして僭越ながら誤解を解かせて頂きたく存じます。キリストの救いに関しましては自分で自分を救う概念の一つの自浄や自助とは違いましてキリストは人の救いでもあり父なる神様の赦しでもあるのです。神と人の片方だけが救われるのではないのでございます。たとえば人同士が争って赦し合う時には、私は謝ったのだから赦されたとはならないのではないでしょうか。(私の方からは謝罪したので赦す課題は相手にあるとはならないと思います。)謝罪とともに相手の方が赦したとなって初めて互いの間に働いていた罪が消えますから自他にある罪との戦いでもあると存じます。同様に救いは片方だけの課題ではなくて双方の課題でもあるのだと思います。そこで私が罪を神に対して(この場合は神の作品である世界や人に対して)犯した時に私の代わりに私の罪を消して下さるのがキリストであり、また神様もキリストを通して人を見ますから神様の憤慨も無くなり人と神様との和解が成り立ちます。神様は完全に最初から義の方ですからどんな罪も見逃される事はありませんがキリストにあってこれを見逃せるのでありますね。神様も赦す理由が必要であり私が赦されたと解る理由が必要なんです。それで神様の赦し、キリストの贖い、私の悔い改めがあり、「まことに、あなたにいいます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」となりまして、最早罪が生きず神と共に生きれる歩みに招かれます。たとえますと雑巾でガラスを拭いてもガラスは綺麗になっても雑巾は汚いままですから救いは全うされません。この雑巾を私ではなくキリストが墓に葬り復活によって永遠に葬ってくださったと私は信じているのでございます。私自身の霊的過不足を垣間見る時間を頂けましてほんとうに感謝しております。主の恵みが皆様と共に在ります様にお祈り致します。ありがとうございました<(_ _)>
命の起源(人は何故死ぬのか)
さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。
ありがとうございます。何故人は死ぬのかについての考察記事となります。死を考えるにあたりましてとても大切な事象はやはり順番でありますね。死から生が生まれたのか。または生から死が生まれたのか。どちらも純然たる事実として実在しているのではありますが可能性として高いのは生から死が生まれた方だと考えられます。生きていましたら死を選べますが死んでいては生を選べない理由により生が在った後に死が入り込んだと考える方が自然であります。またどの様な科学者でも物質から命に至るには何らかの奇跡が必要だと認識していますが私も同意見でございましてその奇跡こそ創造者の存在無しに成る事は不可能であると考えられます。実際に人間が奇跡で人間以外の命を生んだ事は人類歴史上ありません。ですから人間に0から奇跡的に命を生みだす能力が無い以上、生を創られた方から離れる事が死であると認識できるのでございます。人間は生を創造された方から離れているので死ぬ。だとしましたらどうして創造者から離れたのでしょうか。
その原因を説明している個所が旧約聖書の創世記に記されております。有名なアダムとエバが自分で善悪の基準を決めるとき、あなたがたは死ぬという創造者の言葉があるのですが、それは既に創造者である神はアダムとエバが善悪の基準を自分で決める事を知り創造者(命)から離れて死に至る選択をすることを予め知っていたからだとも解釈できるかと思われます。この場合強制ではなくて警告に留められた理由は神はどの様な行動でも奪わない愛の方でもあるからですね。
自分で善悪の基準を決める呪いは全人類にいきわたり今は価値観という殻に覆われて守られていますがそれ故に人は命に至ることなく価値観を命より尊ぶ事を選んでいる現状でございます。とはいえ命より大切な価値観を手放せなどの行動示唆も否定も肯定も致しません。人は生きていましたら自他共に死を選べますが、生かされている場合は自他共に死を選べないからでもございます。それよりなによりつくづくと悔しく感じることはこの実を食べてもあなた方は決して死にませんと嘘を付いた悪魔の罠でありずっと人類はこの嘘の殻の中に閉じ込められています。人の体は水や空気や太陽や食物がなければ保たない様に、人の心も心の創造者の元にいなければ命に至る事はありえません。死を纏いながら死に打ち勝つ方法など死を破る事が出来た方以外無いからです。どうか一人でも多くのカルトやスピリチュアルや異端の方々が誠の創造者の命の元に還れます様に。私は悪霊やその頭には膝は付きませんがどの様な価値観の方にも仕える事が適います様に強めて頂きたいと切に願っております。
赦しと命題
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ありがとうございます。命題とも捉えらえます『赦し』の流れを言葉にさせていただこうと思いました。赦しは自分の心。許しは御人への自分の心と捉えます。たとえば就学の為に1年間掛けて貯めた100万円を就学以外の理由で失われたとします。その理由が親の必要の為、病気の必要の為、友の必要の為、恋人の必要の為、色々量りに掛かる重さはあるとは思うのですが、元々の自分の意図と外れてきますとどうしても赦しが心の均衡を保つ為必要となります。赦す必要が無い場合はその分心労負担が軽いという特性もございますが、その場合には100万円はまだ使用目的をもっていませんから100万円くらいで。。。という目的を造ったことばも生まれます。それで失った100万円に対する赦しは使用目的が無い状態から赦す事が出来ない理由なんですがそれは元々の就学したいという目的があったからという構造になりまして、目的の有性ですから有性は人によって違うという思考にはなりません。
そうしますとスタートが無性質や喪失状態から赦せる様になるのではないのですから、同じ有性の赦せるものが届く、いわば赦せる為の恵みが届くという事象が赦しの一歩目であると私は捉えております。なかなか長時間恨みが消えない理由にもまだ恵みが届いていない無性質状態と捉えられているからだとも考えられ目的の有性は一つでありましてもこの恵みは人によって様々に変わるという多様性は働くと考えられます。就学以上の魅力を感じる新しい目的が出来る事や遥かに超えた200万円を貰えた、または集めれる手段が生まれる等々。何れにしましても行動でしたらまた行動を強いる特性も付随するからという理由の元、赦しは行動ではなく恵による副産物であるという解釈を私はしています。(イジメ、理不尽、不義理、身内殺し)に対してもですね。
では。。100万円ではなく失っていく命は何によって福産物としての赦しが生まれるかに至るのですが、それは『失われない命が失われる事によって失われた命が失われなくなる』副産物以外にありません。それがキリストの十字架となります。それ以外には人類が知っている命に対する赦しの副産物はございませんので、無いのなら創ろうとする行動で赦しを伝えている現状となりますね。大まかには『神は赦せない私を赦している』と『神ではなく赦せない自分を赦そう』この2つの選択肢があるみたいですが『恵まれても赦さなくてええやん』こちらの選択肢もありますね。私は主に在る者ですので、主の恵みがあって後に副産物として赦す事が出来ます様にとお祈り致します。
孤立の横にあるもの
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
ありがとうございます。この御言葉はまだ神様を信じていなかった頃には。。何言ってるのか全くわかりませんでした。どうして悲しむのが幸いなのだろう。。。と、みなさんも多くの悲しみに遭われた歩みを共にされたと思うのですが、生い立ちや種類のこともあり、人の悲しみってなかなか自分の痛みには成り難いのはご納得頂けるのかなとおもいます。離別や貧困や争いのなかでも特に胸に縛りの感覚を憶える悲しみを僕は『孤独』や『孤立』だと認識していましてこちらを避ける為に自分もそうですけどそれとなく無理をしてしまうこともあるのかなと思います。それこそもう無意識レベルで孤を避けようと。僕の場合は学童の頃その無理を集団で笑われて最悪の『孤立』を引いたことがあります。滑るだけならその場で立てるじゃないですか。だけど滑り落ちていく感覚というのは動いていてですねずっと動くものですから何とも周りが見えませんし目先には触れない暗い穴しかないような感覚。。。きついですよね。少し和らいだとしましても。追い打ちをかける様に『そんなことをしていたら孤立します』や『おまえのこと誰がすきやねん?』とか『あんたにも嫌われる原因があるんちゃう?』とかね。これは言った人への揶揄ではないんです。問題はこの言葉の特性でして、このことばの特性は『比較』となります。ですから例えば『僕のことが好きになる』のも『僕の嫌われる原因を変える』のも特性と僕との天秤であって僕じゃないじゃないですか?僕自身じゃないんですよね。そう。。。
なので神様を信じている今は何故幸いなのかがわかります。嫌われて悲しい。自分が変えれなくて悲しい。そんな時こそ『神様との距離は桁違いに縮まるからです』(物的関係結果がなくとも発動する感覚のことなんですが。。こちらを宗教だと世との比較で揶揄する方はこの感覚があるのに覆いが掛かっています。揶揄じゃないですよ。事実として『そういうこともあるんだね』位で認識していただけましら嬉しいのですけど。)
それで神様との関係が人との関係に先立つときに、嫌った人と自分との比較も生まれませんし、変えれなくても還れますから、自分や人を計りに乗せなくてよくなる幸いがあるんです。孤立したら孤立したでよくて『あ~神様、また孤立してしまってるわ』と祈る前にもう癒されてる時もあるんですね。(投獄されていても心は投獄されないパウロさんに似ています)
総じてイジメや理不尽、不義理や味方殺し、こちらの受容に際し、これら『人には埋めれない穴がある』と思ったときには全く違う脱出のルートがあるという事をお伝えしたいと思いました。そうして神様に埋めて頂いたあとに少しづつ自分を変えていけたらとおもいつつあるいてます。かみさまも僕のことで痛いのかしら?とたずねながら。
『御言葉』対『マウント』対『ポジショントーク』
「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
ありがとうございます。今回はこちらの御言葉から学んで戦う準備をさせて頂きました。と、申しますのも割と大き目の霊的誘惑に遭遇しまして(自我が理不尽だと判断して)勝てなかったからでございます。(味方から味方への理不尽は強烈な破壊力を持っています)そこで神様に尋ねて心労を聞いて頂いておりました時に頂いた箇所がこちらとなります。意識、無意識問わずしまして私は『マウント』や『ポジショントーク』をしたくない時でも内在の『罪』がそれをさせる場合があることをしっていますので『罪』以外の御霊の内住が必要と確信して生きている人間でございます。それで『マウント』や『ポジショントーク』が生まれ得る起因や起草は何であるかと考えるとき。この場合内在の罪が何を使っているかということなんですけど、それはおそらく『分断』です。たとえば1人の人が100に属そうとするときに100に属さないで101となりたい人や1でも100に勝てると豪語する人やそれより1で十分。押し付けるなとする人やと様々。(是非じゃないのですが、押し付けるなは押しつけですので『正確には押し付けて頂いても、受け取れません。が完全拒否でございます』セールス電話やetcに用いさせていただいております)このように多岐にわたりますが結果は多岐に渡ります故の『マウント』や『ポジショントーク』にあがらえないものが漂うと考えられます。ですので私の心情は横において置きまして、御言葉から主の視点を頂きますと『最初から100であったものが失われている』こちらで霊敵には対処して参りたいと願っています。スタートは『ポジションやマウントの分離』からでなく『ポジションやマウントの融合』この場合でしたら自分の目は罪にも人にも向かず分離させている存在に向かえますのでここでやっと同じ土俵にたてるかと考えておりました。罪人の私ではなく神様の目から見た場合、『創造の初めからは誰も失われていなかった』という目のことでございますから。この場合には『マウント』や『ポジショントーク』は勝つ術がないと用いさせてください。全ては100匹を持たれていた方のものが支点と視点と始点を補って余りあると考えます。特に悔い改める前に主から直接『あなたの家で泊まることにしている』と知り、最初から自分は100なのだと解ったザアカイさんの喜びは悔い改めに導かれたのだと思うのでした。
結果からではなく原因者から飲む枯れない水
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」
イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
根が低部 も 保持低部 も 咲くも枯れるも結果ですから 結果からだけでは時に霊的原因には成り難い性質をもっています。昼でも夜でも枯らしてしまう原因は飲料が足りないからなのだと主の御前で覚えます。ぶどうの実から主が飲まない理由はまさに私にぶどうの実の結果から混じり出るものを飲ませない為であり。それによって私達が乾かない為であると考えます。主なる神だけが結果ではなく原因者であるからですね。(それによっていつでも同時に隣人共に潤えますように。主と共に働かせてください)
信仰にあります自由
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
離れた方が良い人3選。。。等の動画を拝見する機会がございます。初対面からいきなり暴力を振るう方は守る為に逃げることは大切ですが逃げる為に付け加える価値観はわたしも悩まされるこころ内でもございます。主よりも私の愛が勝っているのなら誠の愛より私の愛が愛だと思うのなら逃げるが愛ならよいのですが。。。こんな人3選という前提は蔑みがかならずあるのですから。(自分を上げる為に人を下げるのですから)逃げる前にキリストにあるわたしができることは主が愛しているこの方を主が愛されますようにと..呪いより祝福を運んでくる方が先だったとおもうのです。
(そういう過去の景色はどこかに飛び出ている意図の綻びがあってもつれているからですね。今でも過去に囚われて格闘する時もございますが、視えない未來とは戦えませんしむしろ自分の過去がみえているかどうかのほうが盲人が盲人の手引きをする様に私にとっては恐怖でもございました。)それは行いによる人からの賞賛を欲しいのではなく罪からの解放を同胞の方々共に主に在って強く求め続けているからでありわたしでなく愛。わたしでなくキリスト。ほんとうに信仰にあります真理は私を自由にしていただけました。
『信仰にあります自由』
それで具体的に離れるということは神様にその方をお委ねするという事となり。そのときには自分の愛憎や憤りも神様にお委ねしていますので。蔑みも自分がしてあげたという自負も同時に離れます。(聖書の神はその人が悪人でも善人でも救う神だからでこれは人間の理解の外側の感性でもあります)あらゆる私の心の重荷は神様が引き受けてくださいましたので愛し難い方を愛する時には主に立ち返る機会を頂けるのだと信じます。また愛した方を愛し難くなった時にも還れる場所は必ずございます。
船は塩気で船になり
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
ようこそ。ありがとうございます。わたしは1999年に洗礼を受けたキリスト者ですが歴だけ少しばかり長いだけですので多くの方々と同じく誇れる実績はまるでございません(笑)。ほんとうに無いんです💦。無い者ねだりでしょうか。そのなかで何か自分でも出来る事はないかと働いてきた動機は熟れるのですが同時に憂る機会も頂くことになります。動機は如何様でございましても、もともとの価値観や人間の器といわれている物の中に入る優しさや愛には限界がございますので頻繁に誤解も生まれます。海に浮かぶ貨物船や豪華客船やボートやイカダなどその人によって同質でございましても均一性を保つ事はありません。それでその船は時々どのような働きをしているかと申し上げますと船同士での器の大きさや形や速度を競わされたり、または何をこの国に運んできたかの実績を負わされましたり、またはどれだけその船に収容する人が多く乗っているか(人気)の大砲を打たされたり、または打ったりと、悠久の歴史からずっと永遠にそのようなことが続いておられます。こちらのような世界観といいます世界の見え方は人それぞれですから船の中からの是非は聖書でいいます所の大きな目の中の梁でありますので是非から是非への心は嘆かわしさのみが張り付いおりました。もしこの船の中で、もし船しかなくて、苦しい毎日が続いておられ、もし船の改造や増築や承認や装飾に悩み、苦しい重荷があるのでしたら、世界は船だけではなくて船は海によって生かされている事実をお忘れでしたら、思い出して頂ける機会になりましたらと願いました。それでこの海の事を聖書では地の塩とも呼んでおられまして(一つではない気もしていまして解釈が難しいのですが💦)船だけでなく海と共にいる事がわたしと私の隣人の平安になってくださっています。船は海の後に出来た物ですから海の恵みで生かされていて、もはや船の形も器も大きさも問われる事は御座いましても問うことはないからでございます。そして驚くべき事にはこの海よりも『あなたは高価で尊い』と『私ではなくて聖書の神様』が『福音』を齎そうと船の中のあなたへ働いておられるのでございます。
既にあるものを伝えたい
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
彼らしく我々に負担を掛けずに御国へと向かいました。最期は甘えておられました。
福音伝道といいましても新しい別の何かをお伝えしたいのではなく、既に皆様が出会っている神様を私の場合は文面でお伝えしようとしています。たとえば今は秋で、もしサツマイモを見た事がなくてもサツマイモを焼いている匂いはお伝え出来ますし、たとえば夕方のカレーの匂いはほのかな家族が見えなくても居てもおかしくない想像を与えてくれます。たとえば今回お借りしましたGod Bless youの讃美歌を共に暮らしてくれていた彼へ贈りたいと思う願いに何かを感じていただけたとしましたら、それは皆様が既にそれを感じさせてくれた存在と出会った事があるからだと私は信じています。(それがたとえ母の胎の中であったとしましても)
こちらの写真は非常に苦戦を強いられていました雨漏り修理の時に撮影した写真ですが樋が乾燥して廻りが完全に乾燥していましたのでこの様な染みは肉眼では普通確認出来ませんし、ここに居ました撮影時にはありませんでした。スレートの裏側からでも表面まで雨水は沸いてはこれません。それでこの染みを眺めていた時に新たな解決策への道標となってくださいました。こちらも私にとっては出会いなのでありますね。(雨漏り修理の生業人生ではこのケースだけでなく解決への糸口との出会いが殆どですから運ではなく神様の恵みだったと私は振り返り楽しくなるのであります。)
私も被造物でございます
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
仕事柄、その工事は私の基準に至っていない。この様な現場が多々ございます。逆に他の方が私の仕事を観ても至っていないと感じられる自我が存在するのだと思います。至っていないと感じる自我の基準は非常に範囲が狭く私の方からですと当時の施主様の心情と工事をされていた方との関係性が解らない以上、自分に都合の良い実在への価値判断は平安をそぐ要因でもあるのでした。実際お聞きした一例ではございますが当時の施主様がご家族からの孤立感を覚え、当時の営業、若しくは工事人がその穴を埋めていたのだとしましたらその工事には実際よりも目に見えない付加価値が付いており、至っていない工事でありましても私の価値判断は完全でない場合があるからであります。
実存工事に対する価値判断だけでなく目に見えない神様も同じでして、ある人の自我には基準に至っていない、何故そんなものをと御感じになられるかもしれませんが神の存在の範囲は自我の範疇に収まらないのは私の生業の事業からでも推察が可能なのでありますからそこから人様の自我は押し付けも決めつけも帯びていますがそれだけでない可能性を憶えて受け入れます。ですので私は決めつけない事によって目に見えない神様から平安を頂けると歩ませて頂いていますので内在の私の罪によって決めつけなければ自我や価値判断以外の神様の働く余地が生まれそれにより生かされております。上記御言葉にございます被造物とは自然だけでなく私を含めての事でもあり、私をみても神の存在が明らかであると信じれるのであります。
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
生きているいるのなら死も選べるでしょう。生かされているのなら死は選べません。と信じます。
あなたの因果ではない
イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
先輩の女性の方とその死に様による不足が罪悪感となり共に悲しむ機会を頂きました。しかしながら生から死へとの移り際にどうしてその方の歩みや残されたもの、またはこれは私も当然含まれるのですが他者評価が死因や死に華と関係するのでしょう。その人の最期です。どのような死に様でありましても死にまで価値評価を付けようとする悪魔の働きにはうんざりしてしまいます。このような文面すらも本来必要がありませんとするのなら信仰による生がなお求められている訳でありますから死なない事は人間の自由への一歩目であると馳せ届き創られた被造物である私が辿り着ける場所は創造主が辿り着けない訳を考える方が困難を極めるのでございます。偶像化した概念としての宗教が蔓延り過ぎた結果、真理に覆いを掛けたいのか、そのままがいいのか、またはならぬのか等々は命を創れる方が決める事であり命を頂いたものが決める場合には量り天秤の如く必然的に自分を重くしますから他の命を軽んじる傾向があることも罪の働きの一部でもございましたので罪から出ていないものが罪と戦える必然を憶える次第です。先輩とどの様な歩みとなるか解りませんが最善を尽くさせてください。
自尊が死に恵みが生きる
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
アダムとエバが命の皮をとって着せられた事も、キリストが人に仕えられた事も、死んで葬られた体が復活されたと体験出来る前に霊的な新生が自分を諦めたキリスト者に起こる事も全ては型であり事実でありますから共にしております。キリストを信じたといいいますかほんとうに自分を諦めた魂にはキリストにある新しい魂の歩みが備えられているからであります。こればっかりは。。。体験でありますので先も後も序列も関係なければ神様のなさる事と信じます。加えましてわたしは私自身を裁く事ですら主が裁かれた十字架の前にありましては出過ぎた事と置く様に致しまして、また良き事との評価をいただきましたらそれはキリストに寄ります事と覚え信仰から出ていない罪からの自由を得ている次第でございます。このような新しい霊の歩みがあるのですから新しい体による歩みがあると信じられますので聖人君子等の揶揄への弁明または過剰評価に希望を置く事は無く、いよいよ霊的新生によって霊的体があたえられる約束に希望を置かせて頂いている次第でございます。神は体より先に最初に霊的新生によってあなたがたは死なないと解る様にしてくださっているのでございますから自尊が死に恵みが生きる以外に考えられないのでございます。ありがとうございます!
人間から洗礼される神
そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
キリストは神であられるという自己存在意義よりも人間の救いを選ばれました。洗礼者ヨハネさんは人間ですのにキリストは人間から洗礼を受けられたからです。ご自分を父なる神の計画に委ねられた時に聖霊が鳩の様に降りて来られたとありますのは大きな大きな私への励ましでもございます。神様が人の下に付かれるということは世に御座います宗教とは異質であり、愛そのものの働きの内にご自分の立場を放棄されましたのにどうして私が続いていけない理由があるのでしょう。そこに自由の聖霊が働かれる事を憶え死んでも生かされるこの道と踏みしめる次第でございます。死んで生かされる実感もまた、神様との距離が縮まる恵でもございます。
言葉の中におられる神
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
わたしには言葉の中に神ご自身がおられるという感覚がございます。たとえましたら賛美歌での賛美はわたしだけで神様をほめたたえている訳ではなくてイエスキリストの御霊と一緒に父なる神様へ向かって歌っている感覚を憶えましたり、会話にしましても談話にしましても対話にしましてもイエスキリストを交えて2人以上で話している感覚がございます。本当に聖霊のパブテスマを受け入れてから(頑なに意地を張っていました自力での人間性を磨く生業を諦めたその時から)愛は不正を喜ばずに真理を喜ぶと御言葉に御座います通り真理と共にいる時は愛が喜ばれているのがわかりますので愛が喜ばれる言葉を求めている時に殊更平安に包まれるひと時でもございます。愛とは父なる神でもあり真理とはイエスキリストでもございます♪
自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。
命の内にある救いと命の外にある迷いが世には実在していました。もともと私は生まれた時に命を所有はしておらずその後自我の発達と共に所有に至るわけですがその前の状態が本来の私でもあるわけです。『もはや私がいきているのではなくキリストが私の内に生きておられる』とはまさに『命の内に還っている状態』ですので命のことで何を着ようか何を食べようかと思い巡らさなくてもいい訳でもあります。(それだけ私でなくキリストは完全な方なので在ります)こちらの日々の歩みと並行します律法の全うに際しましても『命の内に居ることでの自然現象』のようですから評価価値の振り子に乗りたくても乗れずむしろキリストにある事がわたしの誇りになってくださいました。この命の内に置いてくださる恵にありましては信仰を信仰と捉えれずに思い込みでも盲信でも権威への服従でもどの様に表現されてもご自由である所以はそれが『命の外側におられるから』に他なりません。御言葉の通り命は所有すると滅びに招く言葉を生み所有しなければ滅ばない言葉を選ぶ特性を持っているのだとおもいます。ですので同労の方々及び私にございますこの滅ばない命からは滅びに招く様々な事が出来ないのでありますからますますひとりでも多くの方に所有しない命による平安が御座います様にと馳せている次第でございました。
兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
聖書には新約聖書と旧約聖書がございます。それでもし旧約聖書の記述においても異端とは申しませんがご自分の解釈が正しいとされる場合なんですが、それはイエスキリストより私が正しいとしている事と同じになります。ともうしますのもイエスキリストは旧約聖書の言葉を用いていますのでもし旧約聖書の記述が間違っているのでしたら最初にその間違いを正すのはどう考えてもイエスキリストでなければならないからですね。(しかしそのような事は起こりませんでした)私も含めまして笑うものとされませんように、悪いものから護られます様に。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
時々『裁き』と聴きますと私は隠れてしまいます。見せたくない自分がいてアダムやエバの様に隠そうとしてしまう時はあります。『裁き』を恐れているのです。しかしこの『裁き』の本質は私の持つ裁きと違いまして人の裁きはそれが『護ろうとしてなのか』『愛された認識を持てない過去からなのか』など、隠そうとするものの前段階にございます原因を自分の想像や価値観の中から選択していますので実際に人は完全には裁かれた事がありません。人の裁きには同じ歩みが無い以上どこかに『穴』があってあたりまえだからです。(誹謗中傷も実は欠陥だらけです)しかし神の裁きにはその『穴』がなく全てを知った上での裁きですからこの上無い公平な裁きでもある訳ですので私はその裁きには全霊を委ねることが出来ると考えている訳でありました。むしろ私が知れなかった私を知れる機会なのではと期待する程でもあります。キリストが来られたのは罪人の私にあります罪によって罪に定める為の裁きではなくて、罪によって罪に定められる同胞や私を解放するため、また人間の義ではなくキリストの義を受容する事によって人の罪が自他問わず死ぬ事の模範になる為でもありました。神には罪がないので罪によって罪に定める事が出来ないからです。もし罪によって罪に定めるのならそれは神ではありませんし、罪によって神を知ることもありませんが(サタンが罪を人間に入れた理由でもあります)罪によって神を想像して造る事は裁き同様不完全ながら可能であります。ですので罪の無い神の聖霊を受けたキリスト者はご自分の力ではなく平安の内に全うさせていただいてる事実を伺えるのでありました。
罪によって罪に定める事が出来ない神はその身に人類の罪を背負われる事となさいました。この無知で鞭を振るう役者さんは私の内面にある罪でもありますし、群衆の哀しみや目線も同時に私であります。
すると、試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。』イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばで生きる」と書いてある。
激痛を帯びて言葉が届かない時でありましても『今は何も言えませんがそばにいるようにします』発しませんがやはり私はこのような言葉を自分の心に巡らしている時があります。ことばは発しているかいないのかの違いはありましても互いの痛みの糧であることに違いはありませんでした。また私は記憶能力が乏しいので自分の書いた言葉がのこっていない時がございます。そのことに少し罪悪感を憶えておりましたが言葉は記憶(石)ではなく生きる為の(糧)であると御霊により伝えて頂きましたので石をパンにもパンを石にも変質しなくても良いとの慰めを受けました。(悪魔の誘惑に負け糧を記憶に変えますと頭の悪い人云々の驕りが出るかもしれませんし、蔑みを持つかもしれません。)ですから、今、この時々に全ての方に必要な神様が創られた言葉の糧が主にあって備えられますようにと祈ります。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。
つぶさに湧き上がってくる過去は誰にでも御座いますでしょう。私事をあげますとたとえば給食代金の未払い用紙などはホームルームの学友達が並ぶ前で渡すものではありません。子供は思っている以上に子でない子も混じっているからです。そのようなものは中々消えない重い出といえばよろしいでしょうか。これまで吐いた事のない暴言を憶え、その時の自分はまるで迷いの子の有様です。好きだったから。これほど両刃と蓄積する罪悪感になる感情も類が少ない中。ただ迷いの子の感情に善悪は付けていないか、もしくは外しますその手の平はまるで腕同様の重さがございましても主の御霊によればそんなに難しくはありませんでした。『給食代金は元よりキリストが全ての代価を払ってくださいました』ですので迷いの子でも主にあって見届け続けているのならそれには未だ名前をつけなくてもよさそうなのです。
すべて疲れた人重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
小さな頃の記憶を辿ります。学童時代は貧富の差が暗黙の内に漂う環境で育ちましたので砂を噛む様な思いは常駐しておりました。その後も能力や見栄えや諸々の不足によって悩む事もございましたが、日本には上には上が居るというすばらしい言葉がございます。自分が羨んだ対象対人に対しても上が居られ、またその上にも上が居られます。こちらを突き詰めますと上とは全知全能の創造者に行きつきますので、この方と共に在る場合に限り上も下もこの方の創造の御業であると信じる時に妬み蔑みの纏わり付きは少しづつ離れていってくれました。それと同時にこの世界は創造の世界でありますから妬み蔑みがございますので偶然自然発生した世界ではない事が伺えます。神の創造の業を最初に妬んだのは悪魔でありました。
神は実にそのひとりごをお与えになるほどに世を愛された それは御子を信じるものが 誰一人として滅びる事無く永遠の命を持つためである
あなたはあなたのままでいい。わたしはわたしのままでいい。こちらの言葉の聖書での解釈はあなたはあなたのままでいい。わたしはわたしのままでいいと「主張」する方ではなくて『受容』する方でございます。方向性が違いますので、もし、もし、受け取ってくださいましたら、ほんとうに。。。『あなたはあなたのままでいいのです』とキリストの愛を土台とした平安が訪れていただけます。永遠の命は(持っていないと主張できませんから)主張では得れず『持つ(受容)』とヨハネ3:16に記載されいます通り、贈られる約束だからでございます。また神の誠の愛は何かを成すから、出来るからで愛されるのではないのですね。
あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。
聖書によりますと、霊的な体としましてキリストに繋がれておりますのでキリストの働きは実際の体の様に先端部分から始められました。主は(見た目良く轟きわたりそうな)いきなり雲に乗って来られた訳ではなく赤子の形を取られました。ですので取るにしても嗅ぐにしても歩くにしましても末端に馳せましてはその後、爪、指、手、手首、腕と伸び最後に天に向けられる働きをさせて頂きたく存じます。どの部分も欠けますと哀しまれる方を想い、いよいよ爪先の私などは対象対物にあたり皮肉の柔軟性と共に少しの固さを頂きたいと願います。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
今日も自分で自分の名前を決めない場合、あなたは○○ですと神様に呼ばれています。隣人や愛する方へも、自分が決める○○さんではなく、誰かが決める○○さんでもなくて○○さんを創られて最初から知っている神様が呼ぶ○○さんという響きもある訳でございます。こちらを明らかにしてくださったのは私の血肉ではなく父なる神様でございます。信仰により教会(この場合は個人ですね)への尊重への足掛かりができることもあり、こちらの尊重は自我とは別となりますからよみの門も打ち勝てないことを喜んでおりました。
兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けているのですか。それを宣べ伝えているのなら、十字架のつまずきはなくなっているはずです。(ガラテヤ人への手紙5:11)
最後の砦という言葉の汎用性を想いました。それは対人との確執の除去であったり、契約賛同への鍵でありましたり、借金の清算であったりと人により様々であります。その中での心の満たし。この最後の砦として中々落ちない牙城は自分自身でもありました。割礼を問わず絶対に被造物では埋まらない空間がわたしにもあるのです。しかしながらその部分を同じ被造物である自分自身で埋めようとする矛盾を受け入れますと、もはやそれは埋まらないという自覚が埋まるとでもいいましょうか。その時に御国への歩みが始まったのだと思われます。それで歩いている時ですね、絶対に埋まらないと歩いている時に、(歩くとは馳せるとか想うとか寄せるともお伝えできますが)今は御霊により埋まる瞬間を恵みによって知ることとなりこちらが今の私でございます。ニーチェさんの仰るルサンチマン(こちらを母体とした)概念の方ではなく肉欲でも埋まらない霊的渇望の部分でございますので加えて申し上げますと被造物が創る善いも悪いもこの霊的渇望を生める事は出来ません。逆にもしそれが出来るのなら信仰者は居なくなると考える事も可能でございますから同時に神の救いを無くす事を意図とされ被造物全般がその役割の担い手へと操作されている感覚を憶えてしまう訳でございます。明らかに被造世界が堪えつつも欠損を起こし進んでいましてもです。
うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。(ガラテヤ人への手紙5:26)
誹謗中傷の上に誹謗中傷を置き、暴言の上に悔いることの無い暴言が常駐しておりましてはなかなか晴れ具合を見出す事が難しくなっております。といいますのも暴言、誹謗中傷を御相手にお伝えしましても御相手はともかく自分は殺されることが無い確信をお持ちであるか、あるいは無自覚を携えておられるからだと存じます。ところで昨年のイスラエルへのテロ。1000人以上への無差別殺人を犯したハマスやその内部組織構成に異を唱え事実に立脚する立ち場を全うされているクリスチャンユーチューバーの方々や中東専門のユーチューバーの方が居られます。この方々は御自分がテロリストに殺される可能性もございます。こちらを憶えて暴虐ではなく勇気を携えている方々が中傷世界の分厚い雲の裂け目であると強く感じておりますと同時にイスラエルへの誹謗中傷や暴言を並べる方々はそれによってイスラエルからは殺される可能性が無い事を憤りより先に覚えて雲間から来られる方を望む次第でございます。全く私が頂いた信仰による主の祈りはイエスの言葉ですので命と勇気が護られる事が事実により立脚しておりますからこちらを憶えお祈りさせてください。また、この機会を生かすとしましても、とても見難く飛躍する考え方かもしれません。テロリストと違い私やキリストに在る者が中傷されたとしましてもそれによってその方々が殺される事が無い事は少しづつ私にとっての分厚き雲の裂け目になってくださいました。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。[ガラテヤ人への手紙 5:22,23,24,25]
私の人生を振り返ってみますと大きな失敗や不遜もございましたが少しばかりの華々しい輝きが花咲いた時もございました。主に感謝致します。主に感謝といいますのもその華々しさの大きさは懐かしくもそれらが散ってくださることによって聖書の御言葉とおりの実が付くからでありまして、また花に戻らなくてよい恵に預かれるからでもあります。花も実も大きさや風にゆれる範囲や色具合も様々でありますから世の声でそれらを見ることが無い信仰の目を頂く事も主の恵みの内の働きでもございます。ですから主が創られた自然の樹木の様に私の心内にありましても華が散ったあとは小さい御霊の実が出来ると信じており。花を食す機会にも増して実を食す笑顔が浮かんでは止む事はありません。同じく人にとっての最善の時、最善の花実は主がご存じですから主の時に適った働きをさせて頂けますと私の肉にも囚われる事が無き事も感謝でございます。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。「コリント人への手紙1 13:4〜8」
愛であるイエスキリストは多くの病人を癒し、悪霊を追い出し、日用の糧を備えて全ての方が愛に還れますように全ての罪の清算の為十字架に掛かり福音そのものとなってくださいました。イエスの愛は御言葉通りに思想・哲学・価値観・人生観の影響外にあります。これら人の創造を指差したい訳ではなく、また愛は後から人間が創るものではなく、愛はその内で憩うもので初めからあります自然被造物からの恩恵と性質は同じでございます。また愛であるイエスは自然被造物以上に病人を癒されてその方の心を解放し、悪霊を追い出しその方の心を開放し、日用の糧を備えられて必要以上を備えたいその方の囚われから開放されました。それはどのような思想・哲学・価値観・人生観をお持ちになられていても分け隔てなく、それらを持たなければならない原因(原罪)からの解放でございました。愛を諦めた時に愛が働いてくださいましたのであなたの宮の門に立たせたまえと常に馳せまし綴ります。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11:1〜3)
こころの内には「飽き」という現象がございます。それまで熱心であったものが急に熱心でなくなることは誰にでもございます。「飽き」の正体は自分のものでない事象・事物が自分主体になった時に起こると主と共にある私の内面ではそのように教えて頂いておりました。(恋愛・趣味・仕事など色々)どの様な事柄でも御相手や事象・事物が中心で自分が主体でないときに恋や愛情や好奇心や意欲が沸いてくるように予められているのだと感じます。だとしましたら信仰もやはり神中心でなければ育ち切る事は難しいのだと改めます。それにより見える信仰も見えない創造主によってもたらされているという確信を御言葉から学べましたので信仰を誇ることも中傷にお応えすることも出来ません。また私事でありますが自分主体で御相手が育つこともありませんでした。(こちらは子育てをさせて頂きまして学べました)今は長女が手を伸ばそうとしている夢を全力支援させて頂こうとしております♪
また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は御使いたちに、命じてあなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」するとイエスは答えて言われた。『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた(ルカ4:9~12)
実生活におきましても誘惑は付き物でございます。誘惑の特徴は悪魔の性質と同じアダムとエバが貶められた様が現在も続いていまして命の実を隠して善悪の知識の実を食べさせることでもあります。その結果、是非無く早速アダムは自分だけ守ろうとしました。いわば誘惑は神が備えられた自由意志を殺す為に選択肢が一つしかないと嘘をつく事であります。私事での実例では女性は目に麗しく性的に映る一方でその美しさは丈夫な命を体内で育みこの世に新しい光を生む役割の美しさを可能な限り隠そうと働いていたり、男性の強度はその体格だけでなく目にありましたり、お金使いが荒いと指さすも実はご本人はお金ではなくて「買い物が好き」単純にこちらだったり致します。今はもう世にはおられませんが目に麗しい私自身知らない頃の母が市場で健やかにされている夢をみまして主の道は見え方が増し平安へと続いておられると感じておりました。信仰の大楯の外側の戦いは悪魔と、信仰の大楯の内側では聖霊と共におれるようでもございました。
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」[マタイの福音書 17:20]
信仰によって私の内面に住んでいる高慢の山は動き傲慢の頂は崩せます。しかしながら毎日のエンジン音の様にチューニングを誤りますと信仰もやかましいドラの音に変わる難しさがわたしにはあるのでありますから、ますます祈りと共に主と共に自分の言動を調整し続ける必要性がございます。そうして主と共に崩して頂いた山は平坦になり、主と共に悲しみでえぐれた谷は愛で満たされ平坦になり、わたしの働きではなくイエスが土台となってくださった上ならどんな家でも建ちあがると信じます。また高回転ながら凄まじく心地良いエンジンの音も響いておられるのは天が果てしなく高くあらゆる音を受け入れる備えが初めからあるからで御座いました。
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」[マタイの福音書 16:21,22,23]
こちらの聖句から。私は神抜きで人を想い。人を愛そうと生きてきた時間が長くありました。そのような愛は不完全故に御相手の意向や返答で初手であれ後手でありましても自分の愛が完成される感覚を憶える傾向が強く、その強さは時に結んだ糸を強く切ってしまったり、御相手を引こうとしたりしておりました。しかしイエスはそんな私に(ペテロさんと同じ)下がれ、サタンと大胆に教えてくださいました。愛するとは直接自分の想いだけで愛するのではなくイエス・キリストという仲介者を通して父なる神の愛に働いてもらおうと意図する事なのであります。そうすればイエスの御霊がクッションとなり自分にも御相手にも、たとえ自分の意向にそぐわない結果や過程でありましても落胆も躓く事もなく愛し続けることが叶うのでありました。(父なる神の愛は絶えないからです)こちらの門は狭く広い門から行かれる方多いと聖書に書かれております。また人間が創らなかったこの道でしか愛に辿り着ける方法はありません。その様に父なる神が備えられましたのでイエスが愛である父への道であり真理であり命であります。小さな物にも忠実であるようにとの勧めを頂いておりますので、今はどんな小さな事でもイエスキリストを通ずる事を習慣とさせて頂いております♪
イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また乾きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して乾くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書4章:13.14)
こちらの御言葉はキリスト者の恵みでもございます。幸福感が外側からの事象・事物で心に至るのではなく内側から沸いてくるという約束の御言葉です。今の私の状態が裕福であるか貧しくあるか、大勢であるか孤立であるか、偶数勢であるか奇数勢であるか等の外側から内側への働き掛けとは関係のない平安と喜びがあります。それは私や他の方々、また被造物ではなくイエスキリストでしか私の問題を解決出来る方がいないところまで乾いたからでもありました。個人差を踏まえつつも子が叫びを上げてパンをくださいと願うのに石を与える親はいません。私の魂の親は父なる神様です。また内側から沸いてくる泉を用いて愛する事でわたしではなく主の栄光となる局面がやって来ると準備させて頂いております。
わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。(マルコ14:36)
目で見て、手がそれを掴み、口へ運ぶ骨と、筋肉。咀嚼する歯と、味わってくださる舌、何事も一旦は飲み、受け入れる喉の役割のキリスト者と、何事も昇華と祈られる信仰者の後に、みなを共に同時に育まれる神。諸点においての出来不出来はたとえ見えても主にあって成らず。誰一人わたしが秀でている、または劣っているという不自由に捕らわれる事がもうありません。神から生まれた者に神から生まれた者以上の誉は存在しないからでございます。何故なら神は愛であり愛はいつまでも心に残ってきてくださったからです。
愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。(コリント人への手紙第一13:8)
預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイ10:41.42)
現在わたしの住む庭の足元に足長バチ(毒バチ)の巣があります。家内が雨にやられないように保護していまして、たとえ(毒バチ)といえども距離を保って見守っておられます。私も行き交いつつ毒バチの巣に目をやりますが攻撃してくる様子もありませんので今回私達が主から受けた報いは、毒バチや人格の主権はわたし達に無く神にあるとした場合、被造物の状態によらず我々が主の創造や主権に心を向けて出来る事が残っているという事でありました。いわば私の人格価値判断と愛は全く別の場所で働いてくださいます。信仰と主権者によって私の膝は再び立ち上がり、初めて『受け入れる』報いの扉に手が掛かるのだと信じます♪
神は実にその1人子をお与えになるほど世を愛された それは御子を信じる者が誰一人として滅びる事無く永遠の命を持つためである(ヨハネの福音書 3:16)
膨れた着物をまとった民意はまるで津波や洪水や地震と同じ壊れた自然現象の様です。何も壊れていなければ神が意図されていた美しさや歓声を自然と同じ様に奏でる事も容易でありますが神は壊れた民意も捨てられる事が出来ない方ですから(人には出来ても神に出来ない事もございます)御子をもって愛されたことに御霊と共に在る震えが起こります。この時、神は一体誰によって慰めを受けるのでしょうか。ひとりひとりのキリスト者が主にあって天の父の喜びとなれますように。
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです(コリント人への手紙第一1:21)
今の世2024・8現在にありまして様々な福音の伝え方がございます。時に私の頭の固い部分では自分を頭より高い棚にあげ見えず(もうすこしこうしたら。。。)などの含みが満ちる時がございます。しかしながら宣教のことばの愚かさは私にも十二分に掛かって参りますので(もうすこしこうなっても。。。)その知恵によって信じる方が救われることはないと確信し、それによりあらゆるブーメラン理論は終わりを告げてくれました。御言葉によりますと宣教のことばの愚かさを通してでも神は信じる者を救うのです。ですから私の(もうすこしこうしたら。。。)それだけでは救いには全く足りていません(足りていないから神の働きを垣間見ること叶うのであります♪)たとえば144000人のスターシードというスピリチュアル概念がありますが、その概念の元は艱難時代に144000人のユダヤ人の福音伝道者の方々を残すという聖書の記述です。それだけ多くの個性を神様は用いられるという事であり宣教の言葉の愚かさの集合体は神様に用いられる時には愚かではなく救いの働きそのものになると信じます。
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることは出来ないからです。その土台とはイエス・キリストです。
今日、もし傷つけられたのなら、今日もし非難を浴びたとしましたら(たとえば私の場合でしたら本日アップの動画が再生回数2回で高評価2と低評価2。。。こちらの意味するところは動画は見ずに低評価しか最初から付けない方も居られるという事でございます(笑) それ故あなたや私の為に愛そのものの方は十字架に付かれ復活されました。今、主に執成されているのはあなただけでなく私だけではないのでございます。
それで、何をどう遠まわし、もしくは直接に表現されたとしても、私の土台は人の評価の上にはありません。ここを崩されては霊敵との戦いに戦う前から私や私の愛してきた兄弟姉妹が崩されてしまうからでもございます。キリスト者は自分を土台とせずイエス・キリストを土台として戦う幸いを得ています。わたくしはもとより愛する同胞の方々にいつも主の御言葉が輝きます様に。主はいつも共に居られます。
はじめに神が天と地を創造された
時間と空間と物質はどう考えても人間ではつくれません。ビッグバン理論も時空と物質が最初に有るという前提で考えられています。はじめにが(時)天が(空間)地が(物質)この3つですね。この被造物の中で時は色々なものを癒す力を有しています。あー今日もどなた様かが時にゆっくりゆっくり。じわじわ~っと癒されているのだと時を創られた神様に向き歩みます。多くは人が創造出来ないものが人を癒されているので人を人より愛する神が人の作る偶像をねたむ事への理解に難しさがありませんのは偶像は時にその有限性故、人をえぐるからでもあります。最愛の方を亡くした時私の偶像は私をえぐりとりました。それと(時空と物質は分け隔てもありませんから♪)埋まらぬまま、穴が空いたまま癒される事もあるのだと思います。それはまるでトマスの手を包む主の御体のようでございます♪
あなたがたは世の光です。山の上の町は隠れる事ができません
わたしの好きな光。たとえば多くの家族を守り切った文化住宅の最後まで灯っている端部屋、ずっとガード下で通り過ぎる電車の方が常に明るい提灯や昔話を聞かせられながら見ていた豆電球など。光としては小さいのですけど味わいのある光。特に提灯は加えて大きな音も浴びますけどそこに留まっていてくれますので嬉しくさせて頂いております。
風は思いのまま吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみなそれと同じです。
瓦屋根の葺き直し工事とスーパーガルテクト施設工事が無事完了致しました♪熱闘ではございましたが本当に風に助けられる体感を頂く事となりました。聖霊も風も人も、自分ですら自分でコントロールしない事を風と御言葉が伝えてくれる現場となってくださいました。熱くなれない聖霊の風が吹くところに寄せて。
全て疲れた人重荷を負っている人は私のところに来なさい私があなたがたを休ませてあげよう
ただ歩いているだけで食品臭がするなどと石を投げられ積もった信仰をお持ちの方から学んでいた時もございました。信仰を優勢思想に変え自力自尊での慰め。お気持ちは量れまた私事を加えますと余ります。しかしながらご自分を主に委ねると共にその様な礫を持つ方々も更に主に委ねることは裁けずに信仰者としての尊厳と自由を護る為の実践力であると存じます。世に在る看過は悪意が土台となる場合もございますが信仰による委任には少しばかりの愛が灯っておるように想うからでございます。要らぬ事でしたらご容赦くださいませ。ただあの頃のお金も地位もなくただただ時間だけが在った頃の論争ありきの面白さは未だ輝いており平安が諸兄と共にございますように瞼に乗せております♪(当方未だお金も地位もございません!が労働時間だけは頂いており感謝でございます!)
主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです
信じた事を実現する為の行動と実現すると信じて行動している事は違いました。神の国は必ず実現する。その理由は信じた事を実現しようとしないからで信じた事を実現しようとするのは人の国であります。(訓戒や律法主義は私に向けるだけでよく他者には向けたくありません。それは神の国でなく自分の国だと思うからです。ですから信じた事が実現しなくても価値観を用いず信仰によりますと落胆も緩和されてゆき緩い下り坂の風景もまた良いものでございました。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
信仰者生活のみならず日常生活での生業にありましても御言葉は働いてくださいました。家内と対話しておりました時、私が種を撒き家内が水を注ぐ、そこまでは良いのですが、振り返りますと成長までも種と水の役割であると勘違いする場面が多くありましたねと二人で主に向かいました。わたしたちではなく主が成長させるのですからその見事さは賛美に繋がりますがそれも種と水の役割を頂いたからでもあります。全てが神様の役割なら賛美も喜びも生まれないと信仰致します。
わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか
普段より随分涼しい一日。七月の終わりでした。またねと送りながらもお帰りと声掛けする月末。そういえば花火もそんな描き方をしてくれます。私にさようならが入る余地がないのは先に主が完済されているからでもございます。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
こちらの動画は如何にして難しさに心血が付く付加価値に理解を置いて頂くかの方向性と如何にして簡単に工事出来る故を理解して頂くかの方向性のことです。日本瓦は遊びが無いので一見難しい並べ方ですが抜け道は探せば必ずございますと共に簡単である程どんなことでも広まりやすいと考えます。
義人は信仰によって生きる
善人は善で生き 悪人は悪で生き 義人は信仰によって生きる。善悪は人の心の内から出てきますが信仰は神の贈り物。贈り主は信仰の完成者であるイエスキリスト。感謝!
私は雲の中に虹を置く
虹の外周は踏まれても踏んだ方の足裏の傷成らぬ程柔らかく、虹の内円は力の限りうち絞りて丸みの維持叶い、反動反して我含め誰1人捕らえず、虹の中心は多種五本線なる音符置き場。どれもこれも私には難しいのですが私でなければ難しくありません。虹の橋が架かるのでしたら見るだけで素敵
私のくびきは負いやすく私の荷は軽い
本日無事に修理工事が完了致しました。梅雨も相まりましたので長くなりましたけどありがとう御座いました。私いかほど懸命になりましても、やはり家の屋根の『想みとうとう』は私単独で背負える物ではありません。若い血色は固まらず広がりその色だんだん馴染んでくるような気が致します。しかしキリストと共になら『想みとうとう』をご希望の場所にまで引ける可能性が希望でもございます。
あなたがたはキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。
世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。
足がないと訪ねられませんし 手がありませんと伸べれません 目がないとみえず 口がなけらば伝わらないのでキリストの御業は一つで成ることが一つもありません。またそれによりましても、世に、霊敵(傲慢)に私は既に勝っていると主は言われます。(傲慢は一人で成っているからでございます。)そのように早朝のコマちゃん散歩のおり感謝しておりました。
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
たとえば、パチンコ攻略法に騙されてる人がいてもネズミ講に嵌っている方がいても(あえて自分も少し買いw)スピリチュアル自己啓発セミナーに大金を使っていても、押しつけて嫌われて孤立している方が居ても、叱咤激励を飛ばしつつ『アホやなぁ~。』と離れない賜物を持っていると敬愛している方が家内です。家内以上にキリストも怒りますし褒めますが絶対に離れません。私の平安はそこから小舟に沢山の荷物が積まれくる様にやってきてくれています。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
注がれる喜びと 注がれる音を聞く喜びと 喜ばれる顔を見る喜びと 漂う匂いの喜びと 味わう喜びと 感謝に触れるものがあってくれる喜び
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません