呪われるものが無くなる日

雨漏り修理・屋根修理愛の現場レポート!

いつもありがとうございます。

悪意が悪意だと解り。善意が善意だと理解出来た頃の年齢って何時からっだたのかを考えておりました。大体は5歳以下で近隣の大人の影響をかなり受けている可能性が一番高いと思われます。

そういえば。。。私は3歳くらいの頃に物を貸す貸さないで揉めまして階段から落とされた事があります。(笑) 額がパックリと割れまして。。。今でもその跡が残っております。

でも、当時は悪意なのか善意なのか理解出来なかったので痛みはあり泣いてはいましたけど御相手を責めたり呪ったりする事も褒めたりする事もありませんでした。どちらも出来なかった事を覚えています。悪意がなんなのか解っていなかったからだと思われます。

大人の人たちは揉めてましたのは当然の事で悪意や善意によって人の反応が変化している事実を学んでいったのだと思います。それから時が過ぎてその体験を踏まえまして今整理している事ではありますが

悪意は良心の方ではなく罪が理解しているという結論に至ります。悪意は人の内面の罪が悪意だと理解して悪意だと判断していますし悪意がなくても悪意だと罪が判断した場合それはその人にとっては悪意となりまして、逆に善意は人の内面にある良心が善意だと判断していますが善意を罪が判断しますとそれは悪意に成り得るという事であります。

ですので悪意を愛が罪だと判断する事は出来なくて善意を罪が愛だと判断することも出来ないのだと思われます。

そうしますと、もしキリストに罪があった場合。神の裁きを人に替わって受けたとしてあれほどの事をとても耐えられるとは考えられません。罪は犠牲をちゃんと覚えているからで長短問わずに記憶は時に忍耐を削ぎ、善意を罪が愛だと判断出来ないからです。

もしキリストに人間のような悪意と癒着する罪が無い場合、神の裁きを受けることが出来ると考えられます。神の裁きを受けても罪が贖罪を自己犠牲だと理解しないからです。だけど自己犠牲なんです。だけどそれは自己犠牲だと愛は理解しないんです。ややこしいですが。

ですので神はその自己犠牲を義とみて下さったのはキリストに罪が無いからでして罪を保有している被造物では自己犠牲すらおおきなお世話だ。自由意志への妨害だと罪がそのように判断しますから罪の無い神と和解の鍵にはなりません。

愛は自己犠牲を罪だと判断しませんから罪ある人間では罪の贖罪は不可能なのです。修行であれなんであれその時がくれば永遠に支払った犠牲を罪が覚え続けるからです。ですのでどう考えても罪が無い方が裁かれなければ罪の無い世の中は1000%来ないのでありますね。

そしてそれは実際に2000年程前に起こりました。もう済んだのです。新しい試みもカルトも価値観も何もかも必要ありません。それでも私が人類の罪を背負ってチャラにしますと活動される事を否定しませんが、そんな宗教は起こりませんしどちらかといいますと贖罪ではなくて崇拝の宗教か自己崇拝が今の現状であります。

贖罪は済みました。罪の無い方が罪の贖罪を終わらせてくれたので悪魔はともかく神様は誰に対しても罪を問われません。罪を問うてるのは罪なのですから。私も可能な限り罪で罪を問う事と戦い続けています。(そこで聖霊の助けが必要でして私個人では内罪の罪と戦うのが精いっぱい。だけど勝てる時の解放感は晴天の霹靂の様であり心はほんとうに軽くなります)

聖書によりますと千年王国が終わりまして新天新地が来ますともはや呪われるものは何もないと約束してくれています。ちょうど悪意がなんなのか?理解出来なかった3歳くらいの霊の状態に戻ると約束してくれているのでありますね。

夢想ではなく現実として、あれは悪いことよ。これは良い事よ。色んなものをアダムのように人から受け取って来ましたが。そういうのはもう必要ない世界が待ってくれています。直ぐに行きたいです(笑)

もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。

もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。
(ヨハネの黙示録 22:3-5 SKY17)

凄い事が書かれています。主にあってあなたがたは世の光と励まされ蛍のように灯していきたいと願っていましたがそれもここでは要らないのです。この世界で書かれている夜とはなんでしょう。物理的な夜ともう一つは悪意を罪が悪意だと判断している夜の事でもあるような気がしています。悪意を罪が悪意だと判断しなくて良い日がくるのですね。直ぐに行きたいです(^^!

アダムとエバが善悪を自分達で決めると選択したあの日から、どれくらいの日数が経過してきたのでしょうか。善悪の基準が全て個々にバラバラで絶えず争い事が止まないのですが、この新しい日には是非立ち会いたいのです。浴びるように神の栄光を受けるこの日を待ち望んでいます。

悪意を罪が悪意だと判断していることはあたりまえではなくて私にとってそれは異常事態宣言でもありました。そんな3歳の頃の私の記憶を残し用いてくださった主に感謝しています。

わたしは鎖と鉄球で繋がれた罪人ですけど主にあって牢獄には居ません。歩いていますとじゃらじゃら鎖の音が反響し合い聞こえはしますがいつか全部チャラに変えていただける希望がございます。

鉄球と鎖が無くなった私はどれだけ飛べるのでしょう。計りはなく、計られももせず飛べるのでしょうか。楽しみで楽しみで今からでもその筋肉は細くはなりません。

階段から落ちた額の傷に、主よあなたの御名が記されるその日が来ます。それはまさに罪がこの世界から一切無くなる日と同じなのですから🍀