毒を盛る器

いつもありがとうございます。普段信仰の気付きを書かせていただいていましたページが重くなってしまいましたので、また創作の詩以外は個別で書かせていただこうと思います。

今回はネットにありましたこちらの写真からの考察がスタートとなりました。こちらの写真の御意見を興味深く考えさせていただきありがたく思います。50代ですので私と同年代でもあり、繰り返される罪の負材に対応出来る内容だと存じます。

ただ組織崩壊や家庭崩壊に繋がる逃げ場の無い環境下にて写真の様な問題がある場合にはそれぞれ適用し難く、あくまで関係性の比重によって働く限定された場合の知恵のように私は捉えておりましたが、助かる方も当然居られますので否定は出来ません。こちらが適用出来る環境も環境でありますし、こちらが適用出来ない崩壊が近い環境も環境でございますので。

逃げ場の無い幼少期にありました崩壊の近い環境や情愛が折り重なっている環境などは私事でもあり、もっと霊的に戦えますようにとの公私の想いが滲みましたのでもう少し分解して整理してみました。厳密に申し上げますと

こちらの選択は自由意志に基づく選択ではなくて御相手に誘惑・または誘導されて選択させられている選択でもあるのです

誘惑や誘導の元凶を聖書では悪魔やこの世の神と説明しております。また悪魔は分断を最も目的としますので悪を用います。

逆に神は融合を求めます。ですから悪魔の誘惑ではなく神の賜物である自由意志を用いた場合は写真の対応のような選択も出来ますし、また逆の選択をとる可能性も出てきます。

自由意志と選択は違うと考えた場合でございます。

神が賜る自由意志なら2つの選択がありますが。悪意は一つしか選べない様に仕向けるのが最も得意とする働きでございます。

人類の祖のアダムとエバもこの誘惑に負け全ての人の自由意志と共に現在は罪も混ざってしまいました。ですので自由意志は選択より護らねばならないとても大切な人間の本質であるとわたしは考えます。

選択は自由意志の先ではなくて後に在り、人から出ますが、自由意志は人の選択の前に神から出ている愛に最も必要な贈り物だからです。

ですので自由意志を賜りました神と共に居る時に選択に左右される事はありませんのは神の自由意志が人々と共にしているからであります。もちろん毎時毎時という訳にはまいりませんけど信仰は何時も自由意志をくださった方へ方向を向かせていただけます。

それで写真とは逆の選択をしたときに結果的に表面上は偽善に映り、悪意を善意でお返ししたとしましても嫌味や自尊自慢ではありませんから自由意志をくださる神に栄光を帰し、神に感謝をささげる方向に動いていけるのだと信じます。

自由意志も評価とはまた別物だからでございます。

(ローマ人への手紙 12:20-21 SKY17)

次のようにも書かれています。
「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、
渇いているなら飲ませよ。
なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に
燃える炭火を積むことになるからだ。」
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

たとえましたら

聖書では私達は神の器と記されていまして、尊いものに用いる器でありましたりそうでない事に用いられる器であったりもします

しかしながらその選択は神がなされる事ですので器は器としてあれば自由意志だけが残り平安なのであります。器には大小様々形は色々ではりますけどその材質は強い鉄でしょうか繊細なガラスでしょうか彩あざやかな陶器でしょうか。

何れにいたしましても

もしその器に毒を盛られても器は毒を通さなければ毒にやられることはありません。毒はただ器に乗っている状態に留まっているだけです。

それは毒親であれ毒子であれ毒友であれ、同じ事ですのでこれからも可能な限り主からいただきました器を使わせて頂きたいと願います。火で精錬された金で出来た器に想いを馳せています。この器には神の栄光が乗り反射しているのですから。

いつもありがとうございます🍀