晴れる家日記

晴れる家日記を書かせてください。思いつくまま、気の向くままに。

人類史が始まってから現在に至るまで幾兆の個、数え切れない程の魂の音色が自分の意志によらずに誕生し、その魂は奇跡的にどれ一つとして同じには創られていません。

人のはじまりは愛の意志による言葉に在り、時代によりその姿を変える価値観によらずとも創生の初めからどんな人でもどんな人種でも皆既にオリジナルであると聖書は約束してくれています。

言葉から生まれたものは言葉で生き言葉で死にます

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

(聖書 イザヤ書43章4節
神から離れているが故。。これを罪といい全ての問題の先駆けです。何故なら神は愛だからです

理由もなく漠然と死が怖いとき、孤独が怖いとき、また人本来の魂に飢えや渇きを覚える時が御座いましたらそれは人の魂を創った創り主の元に還れるチャンスかもしれません。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

(聖書 マタイ11章:28〜30
私の内面に2つの魂が在る事を感じます(御霊と共にいこう)行こうと憩う

私は私だけの意志では何事にも至れませんでしたから、人も一人では至れないことを諦めず毎日受け入れようとしているキリスト者です。ここはそんな私の日記帳でもございます。😊(命の言葉と共に)

愛の神 神の愛

愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。

(コリント人への手紙I 13:4〜8)

(コリント人への手紙I 13:4〜8)

今回はこちらのみ言葉を考えてみたいと思います。
こちらのみ言葉は愛の性質を伝えているみ言葉ということですね。


こちらのみ言葉は愛の性質のことですので
これらが出来ないと愛ではないということではなくて
できても人間は愛ではないということなんですが
うまくつたわりますでしょうか。。。

愛の性質を見て触れて喜んでいますので
出来る事を喜んでいるのではないと書けば良いのでしょうか🤔

理由を言葉で並べ置きますと簡単でして
出来るが目的になり愛が目的にならないからです

また、こちらのみ言葉のどれをとっても
ひとりで構成されている言葉ではありません。

寛容も親切も受け入れられる良い箇所や場所が必要ですし
(キリスト者はあなたは神が創ったから始まりますこれは良い事)

ねたまず、自慢せず、高慢にならず
礼儀をわきまえて利他であるとは

自分中心の心から神か他者の心中心でなければ
何をしてもどうしてもすべて逆に作用する自分を感じてしまうからです
しかし感じるのは自分ですから
愛を感じる時必ず対象は2つ必要です

恋愛・熱愛なんかも似ていますが
熱量ですから永遠には程が不足しています。

怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。

こちらも愛と共にいなければ逆に流れます。
なので先に愛と共にいる事のほうが出来不出来云々より重大なんです。

出来た時、愛と共に居たからだと。。喜べます

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。

こちらはもろに聖書の神の特性です
これ以上ない愛をキリストは提示してくださいましたし

三位一体の神であるが故に先ほどお伝えした愛の特性
すなわち、神か他者中心の心でなければ愛とは逆を感じるという問題を聖書の神は
最初から、改ざん無しで、クリアされているという事
であります。

なので神は初めから愛であり同時に
愛の神は三位一体でもあるのです。

私はあらゆる負罪の根本は
人間中心のみであることであると信じていますから
愛中心 神中心の 生業を続けさせてくださいとお祈りしています

そのときなんだか楽になるんです。

自分でもいいし、自分じゃ無くてもいいしという感じで。

お付き合いくださってありがとうございました🙂🐸

二跨ぎ

アブラハム契約における神の祝福は
時にユダヤの人に対する妬みや
その妬みに付随する優勢思想を生むのかもしれない
僕にもありました。

だが
そもそも神がどの民族を
どの国を祝福するのかは
神ご自身の自由でありますので
自由にずるいもへったくれも
まぁ。ないのですけど
自己中心性思想の根は深く枯れ難いものであります

それはそうと少しづつではありますが
助け手を頂いてから神ご自身の自由や痛みや
悲しみを想うわけです。

旧新約聖書を通してどれだけ神が人間を祝福しても
人間は直ぐに忘れてしまいますし
それとは対極に
何度も何度も同じ過ちを犯しても神は赦すのでした。
人が人を赦すとは数も重さも桁が違います。

最期は神ご自身を捧げるまで人を愛し許されるのです

ですので

祝福してください!。祝福してください!も解るのですが
ほんまにしんどいからね。
わ・か・り・ま・す。

それでもなお

その前に想うべき事は
神の痛みや悲しみにも触れさせていただけたらなと
今味わっている痛みの意味は、こっちかもしれません。
交わりの部分ですね

批判じゃないのですけど
もう一個在った方が。。。を常に考えてます
ご容赦ください。

そういうわけでして

わたしの魂はそんなアプローチが合っているようです
実際ずっと子の頃からそういう感じでしたしね。

割と残酷なグループ分けであぶれる人格のそばにいました。
それは迷惑だったかもしれないし、
場合によっちゃぼくがあぶれてただけかもしれないけどw

実際に望むものもののその前に
先ず神の国と義を求めなさいとはっきりと聖書には書いています。


神の国と義も痛みがなくてできるものじゃないからだと思います。


そういうのはもう全部終わって。。。

神と兄弟姉妹で焚火を囲みたい。
なんかそういうのがいいなぁ。

日にちを跨いでおりました。跨ぐと2つを感じさせて頂いていた次第です

晴れる家 🙂🐸

愛に向かって走る(小走り屋)

「あなたがたも聞いているとおり、
『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、私は言っておく。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、
正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、
あなたにどんな報いがあろうか。
徴税人でも同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、
どんな優れたことをしたことになろうか。
異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。」

マタイによる福音5章43~48節 

ここでおっしゃっている報いとは解放と開放の2つの事でしょうか

解かれる喜びと 開かれる喜びとの2つ

ではなにから・・・。?なんですが

多面体を持ち合わせている自我はまるで宝石そのもので
曇りがかった部分があるとそれはそれで素敵でしょうし
透き通る程、向こうが見える原石も軽くしてくれて
どうかへんな傷がついて偏光しないでなんて思いますし

較べようとしなくても並んでしまう時もあり
並びたくないと逃げても目線は逃げれない時もありました

この折り
自分が美しいと感じる結晶はどうしても愛してしまうでしょう
理屈はあまり関係しなくて自分に無い物があれば惹かれますし
自分にあるものがあればこれもやっぱり惹かれます

しかしここでおっしゃている愛は結晶同志交わりのことでなくて


布のことではないかなと思うのです

敷かれたり破られたり拭かれたりする布

(3つともただただ しんどいだけ。。。。。ではなくて)

だけど解かれて開かれている事が前提となっている布

そういうことで何度か紡いで放置して虫食って穴が開いていますが挑戦中といいますか
空飛ぶ穴開き絨毯を想像する事を先駆けとしまして

私はもう結晶を磨いたところで。。とて。。いや
もう。。というおっさんなんで
2人の子供にももうひと方向あるよと伝えたいですし
忘れたころにやってくる動画の安置コメもそれでいいよと
安置したい。(最近無いけどね。というか過疎だけどねw)

なのでおっさんのおを強めに発音してみますでしょ
なんだか【お】の人みたいに聞こえるwww

こんなふうに変わりたい!

【おお】大風呂敷野郎になりたいw
それを首に巻いているだけで風がほしくて小走りヒーローだったあの頃に戻りたい(笑)

結晶と布

ということで今日もだいたい 晴れる家でした 🙂🐸

承認欲求を考えてました

本日は突然、承認欲求について考えておりました。

承認欲求という表層の言葉がどうも変な混ぜ方をしているような気がしたからです。

私にも承認欲求はあるといえばあるのですがその言葉だけでは厳密さに欠けていまして

承認欲求という言葉の素材は

生きがいや

いきたい。。や

いきがしたい や

生きていたい や

生きてほしい や

なんだろ。

最初はもっと根源的な生からクネクネと構築されているのだと感じます。

DNAの螺旋。。。図

螺旋を組んで生に戻るという前段階の在り様のようで。。。

なので、殺しちゃだめだけど 是非、承認欲求を用いて

生を晴らして欲しいなと思いました。

今日はくもりでも だいたい晴れる家 🙂🐸

進化と退化どっち?

ふと、またいつも勉強させて頂いていますこちらの動画から気付きを頂きましたので記します。悪い時代でも恵が増し加わるという聖書の約束は果たされている。そう感じます。

さて

自然に生命が誕生する確率は25メートルプールにバラバラのローレックスを投げ込んで波の動きだけでローレックスが元に戻る確率と同じだとたしか高原さんの記事か動画で見た記憶があります。

(あいまいです。記憶力。もう少しあればなぁ。)

動画で語られておられた通り雪の結晶が絶対に正六角形であることは誰かの意志と意図がなければそうなる事はありえませんね。全くの同感でございます。

それとは別に

僕が最も驚くのは何故この地球だけが25メートルプールに投げ込んだローレックスだらけなのか?確率計算自体がもうむりなんじゃないですかと感じる事と同時に

だれもめっちゃがんばった単細胞生物の始祖を崇拝していない点です。本来ならアメーバーや単細胞生物を崇めるという文化が在るはずなのにどうもそれらは受け入れられていません。

どこかにはあるのかしら?(あったとしても街の子供用のガチャガチャが限界なのではなかろうかとも思います。)

それから地球上の生命体の性質でオオカミから犬は出来ても犬からオオカミは出来ない事実があるのですが(犬はオオカミの設計図を持っていないから)この事実から照らし合わせてみますと

同じように

アメーバの段階で人間のDNAがアメーバの中に無ければ全生命体のDNAをその身に最初から宿していなければアメーバーはいくら進化を繰り返しても人間や鳥や猿には成れないという事実は無視され続けていますので生命の整合性が取れない点です。

【犬が突然変異してオオカミになった例はないんですね】

ですから僕は言葉も生命も退化していると信じています。悪い意味ではなくて一周廻ると信じている。

この地球も人も時計廻りにデザインされた方はいますので本物の12時を昼の12時をもっと見極めていこうとしています。もちろん1から11までも既に愛されている事実はもう組みあがっています。

奇跡です。ほんとに。

ハレルヤ

諦めなかった雨漏り原因がみつかる2022.5.18

今でも尚、強烈に難しい雨水の経路と先入観との闘いが与えられるわけでして

本日は久しぶりに震えました!

やっとみつけたちゃん 810

やっとみつけた!!よっしゃ~!!!

っと。。。写真はとってないのですが

L型の角の内向きの風の吹き方は重力を時折無視しているということなんです。

ちゃんと刻んでおきます。<(_ _)>!


それからペテロさんの3回の裏切りも当時の僕はふ~んっとしてまして、さも自分ならなんて構えてたのですが3回だけ知らないといいましたが、それ以上知らないと言わなかったペテロさんはやはり使徒なんだと震えておりました。

僕なんて今まで何回やらかしたか。。。というところでまた涙するという(卑下じゃなくて感動の方)

一番やらかしたと自覚する兄弟に一番先にに駆け寄るキリスト。(この方は本当にだれも見捨てないのです。見捨てるという事が出来ないお方なのです)

一人でもそんな方がおられたら私には十分。

ハレルヤ

ポルノと性描写に関しまして2022.5.18

おもしろい夢をみました。
湯舟に浸かりましたら
中性の方が後ろにたっておられて
それは小さくてか細い方

凍えておられるみたいでしたので
湯舟にとりあえず一緒に浸かりましたら
お湯が溢れて浴槽が2個になりました
湯舟が2個に分かれる

小さくて細かった方は温まっていて
きげんが良くなったところで目が覚めます。


天の御国は性別の世界ではないので
いよいよ性別視が消えるのかなとおもい馳せます。

【ポルノや性描写にお悩みの方
お悩みでなければすっとばしで大丈夫。

そんなん知ってるわでもOK!

ポルノや性描写は性の一面だけを強調していて
本来あるはずの選択肢を隠しています。

それは自己中心性描写だけしかなく
神中心の選択肢がないということであり
肉中心だけではなくて霊中心という
選択肢が在るということです

そもそもがFAKEということですね。

(程度のことじゃないですが)
FAKEは人間を縛っても自由にはしてくない。

つまり現われている選択肢は既に備えられていますから
人間は人間のままでそのままで十分という認識が
霊の補助を頂けて神中心の選択肢が開けていくと思います。

霊の補助?それはないわぁ~は結構危険だと思います。

実はそれはないわぁ~も霊から出ているかもしれませんしね🙂。

ところで兄ぃはパンチの写真でなく
若いころもてたという写真を2枚持ってきました!
どうなってんだ。www
とまずまずの平和です。

感謝賛美捧げます。!

幸せのパンチパーマ2022.5.16

えー本日は雨がきれいに止みましたので日本瓦の修理に赴いておりました。兄ぃが若い時にしていたパンチパーマの写真を忘れたそうで。。

いや、ゴメン。こっちもわすれてた w

急にいわれてもなんですが

ならば、もうわすれないようにと

日本人 全員で 老若男女全て一斉にパンチパーマにしたら

全員が全員を笑えるので

強められるのになぁ・・・・

無駄に士気が上がるのになぁ・・

なんて考えて

一人クスクスしてました。(笑)

その時👊パーマは

パンチパーマは丸々のか角ばるのか あははは 小腹にきたw

花火

人の心は近くだと温かいけど

あまりに混じると黒ずんだり

ならばと引いてみた遠くは

綺麗

どっちでも割と大丈夫なように

出来てる 

はなれてるときは色鮮やかやね

涙晴れ

むしろ泣き続けると。。。みたいな景色でございます。😊

迎え星

こちらからみれば流れ星
あちらからみれば迎え星

願い事共に
星の行く先共想う

壁立てば生きやすいが
空の音も聞いていたい
どこか一つだけでいいので

空いていてほしい

この世界の片隅で 2022.5.10

片隅に卑下を感じなくてもいい理由は片隅は一番遠いところに辿りついているということだからだと思います。

辿りつかば、独りの時だって御座いますでしょう。

なので辿りついた道の善悪共は片隅を感じる役割をしてくださった一端でも御座います。

一端であるのなら悪でも正義でもやがて命は失われますから

3つ目の居場所は聖なるかな。

ここに命の源があります。

聖なる方と共にする源の場所は悪も正義も受け入れているからです。

聖なる聖なる聖なるかな3つに居まして一つ成る。

(賛美歌)

3つ目に在りましては、善悪ではなくて聖という選択肢

このような視座が今日昨日でなくて何千年前から御座います。

君は愛される為に生まれた

空は軽く地は重い海は深くて

その前で僕はあたふた、あたふたしていた

人間は彼らの様にそのように

軽くもなく重くもなく深くもなくて良い

及ばない事は及んでいない事でなく

及ばなくてあたりまえなのだとしまっておく

なにもかもはそこじゃないとうまく滲んだ

『きみは愛される為に生まれた』

人間は軽さに及ばず重さに及ばず深さに及ばない

及ばないので彼らの矢印がひっくり返って反射して

こちらを刺しにはこれない

及ばないとわかる事は悪いことばかりじゃなく

なぐさめでもない

愛と言葉にかかんに挑みここちよく負けたけど

それがいい それでいい

『きみは愛される為に生まれた』

愛も同じで絶えることがない。

愛はその性質上絶える事が出来ません(聖書)

挑んでも無理ですこちらは絶えるのです

誰も愛に及ぶ事など出来ないから

そうであるから

皆そのままでよく

それでもいい場所になる

彼らが語らず喪に服しているのは救いの計画

及ばないものも在らなければ

及んではいけないものも

皆子供の頃の様に護られて安心した未来がある為に

『きみは愛される為に生まれた』


子供の頃といいますと

切るにしても、切り取るにしても

片貫きガムのように

廻りだけ切ればいいんじゃないでしょうか。

うまく切った外側はそれだけでも十分美味しい。(笑)

切り取り方やねぇ。。

切り取られた本体は身軽であなたそのもの。

確かスポロガムってそういうのやったと はずw

『きみは愛される為に生まれた』

たとえば頑張りの目的が安定なら

ネットフリックスにて(有料で色々作品が見れるサービス)
いぬやしきという作品をみました。

正義には力が必要で始まる時には力は正義より弱いということでしょうか。

正義が悪に勝つのではなくて正義が力に勝つという意味合いでは私と同年配のいぬやしきさんの温度が丁度いい湯加減なんですよね♨

『悪にしたくないんです』がなんだかジンワリと伝わってきます。そんなセリフがある訳ではないのですけど悪にしたら楽なんですがその毒はゆっくりゆっくり廻って壊死を起こす。壊死を起こした箇所はもう何も感じなくなっちゃって。こういうのを一度や二度はいやもっとかな。体験後の現在の選択眼という感じがしました。

アニメといえば漫画のファブルこちらの主人公のセリフで

『ジャッカル富岡がんばってるなぁ。。。
おれも頑張ろう』

ジャッカル富岡とは架空のコメディアンなんですけどこのTVとの距離と付き合い方の温度がとても自分には暖かくて、いやぁこんな視点を頂けるとはと嬉しくなったりもしていました。私と違って素直なんですよねこちらの主人公は。

なので頑張りと温度の二つで触れてみます。

みんな頑張ってきただけどその温度はまちまちで40度と1度の役割を見ますと何も違わないなと思う訳ですから、頑張りたくなくても頑張ってしまったのなら頑張ったでええやんと思うわけです。足りないと思うなら足りなくてもね。

加えて40度と1度は事実として存在していますから違いがあるだけで優劣はありません。

40段階あるとしても皆自分に重ならないわけでしてそれはもう受け入れたほうが安定しますよねと2つの作品から感じました。(ありがとうございます)

たとえば頑張りの目的が安定なら蒸気機関の安定と風呂の安定は違わないと(笑)同じじゃ安定しません。

戦争で亡くせない物

今回は戦争で亡くせない物を考えておりました。戦争を肯定しているわけではなくて悲惨凄惨はあるのですから緩和を目指そうとした内容となります。やられっぱなしでたまるか。。ということで御座います。

祈り

現在ロシアがウクライナに攻め込んで惨劇が繰り広げられておりますがあらゆる悲しみが画面から飛び込んできてもう見たくないという心情の方も多くおられると思います。

すこし画面と事実から離れて家族や個人にチャンネルを馳せ合わせてみます。私にありましても家族という単位を頂いておりますと折に触れ『皆一緒には死ねないね』という話題も上がります。

家族との別れ、その死別の前後におきましては違う悲しみが覆っているのも事実でして戦争はこれを一気に解消するという側面もあるのではと思った次第です。みな共に終われるという一つの願望が叶う側面でありますね。(あくまで亡くせないという側面です)

感情的誤解を避けて頂きたい個所のご説明としまして、どこの国でも陰陽があり陰の部分は隠れているものですからウクライナ市民にありましても、どうしたって浮かばれない家族や環境が在ると思う訳でしてどうしたって浮かばれないから自ら命を絶つ方や狂気に走る個人またそれを憂いて死をもって償おうとする近親の方々に至るまで。

そのような方が世界中に居られるのなら戦争で家族が皆一瞬にして終われるとしたらそれは果たして一方的に不幸だと言い切れるのかどうか。幸いではないにしても、不幸だと他人が決めていいわけでも無いような気もします。もちろんそうでない家族の方が多数であるのは当然でありますが。

また、なにをしても、どうしても能力が人並み以下で全世界能力主観の今の世にありまして(主義は通らなくても主観は本能に近いので通ります)自国の防衛の為についには一つしかない命や人格を捧げることが出来る事を喜びとしている若者。能力主観外での愛国という名の自分の居場所を確保出来た若者。こちらも居られるのではないかと思うわけです。ここで思い出すのは居場所ですら右や左と指を刺すのでキリストは『そうじゃないよぉ~』とたしなめておられたことです。

結局今回私は何を頂いたかと申し上げますと希望とは今になく先に在り、良いも悪いも今の在り方はずっと通過点なのですから最後の最期は報われて欲しいという執り成しの祈りの本質でもございました。最期の最期を報う方の御国が来ますように。ここに私の希望もあるのですから。

やっぱり僕は再会してゆっくり笑い合いたい。あれがあろうとなかろうとぜんぶチャラにして頂きたいのです。(´з`)

早速聖域を侵すぼく。(笑)

タイトル通りなんですが、やってもうた感が御座います。

なにげに居間に落ちていたノートを拾って中をみましたら、家内の祈りが書いてありました。やってもうた。。。。(-_-;)

もし、本当に神により頼み信じ求めておられたら誰でも必ず会えると信じます。ここは本当に一対一なんです。だから短冊の祈りはみてはいけないと。。。個人的にはそのように思うのですね。みるな!じゃないですよ。w

それでは、反省して休みます。もうノートみないぞっ!(笑)

凹凸を受け入れる喜び対には一対一

今回は凹凸を考えておりました。聖書での夫婦関係は男女は一体であると教えてくれていましてこちらは2人で1人であるということであります。

ですからこちらを肉体だけでなく霊的に捉えて視ますと

例えば僕が尖りますと家内がそれを受けいれて包んでくれまして、例えば家内が尖りますと僕がそれを受けいれて包んであげる。

尖る事は目的でなく通過点でして包まれる喜びと包める喜びが共存していますので
同体である喜びを感じ取れると思う訳です。

こちらは夫婦関係のみならず

尖りがうまく僕の傷に入ってくれましたら問題ないのですけど、まだ穴が開いていない所に刺さるとやっぱり痛いわけでして、そんな時僕は復活されたキリストの脇腹を何時も想う訳であります。

僕は諦めるや諦観視という選択は存在してますので否定的ではないのですけど、キリストの様に受け入れるという選択の方が好きなのです。(捨てるよりも受け入れるの方が好きですから内面はガラクタ城みたいになってるかもしれませんw)

いやこんないい感じじゃないなぁ
いや、こんないい感じじゃないなぁw

キリストが脇腹に穴が開いてるのに笑っておられるのが好きすぎて、穴を開けられる時でも開けた人を庇う愛が好き過ぎて、好きで、好きで、好きすぎて、悶えとる。(笑)何れも受け入れておられたからでありますね。死でさえも受け入れるがやっぱり私にはあってるなぁと思います。

なので、受け入れるといいますと。。。

あ、そうだ

先の記事で僕を裏切った云々と書いていますが僕は恨んでいません。(正確には恨まない様に変えられてきたという事実に相違御座いません。)

その理由は

僕は聖書の神様を信じていますので聖書の神様が人に臨む時にその人は変えられると信じているからです。キリスト者であれ誰であれそうなる事実と希望が存在しています。

僕がその人を変えてしまったら僕が変えてしまったその人になってしまって僕が嫌なんですね。そういうのに捕まるのが嫌。だけどその引力は強いんです。世の中の傾向がそうなのでとてつもなく強い。(もちろんその習わしに準じた事は数えきれないくらいあります。)

だけどもしその人が僕でなくて牧師さんでもなくて誰かでもなく神様に変えられたら共に喜べるじゃないですか。共に喜び続ける事ができるじゃないですか。すんごく長い間喜びが持続すると思うわけなんですね。(恨みよりこっちの方が圧倒的に長くて強い)

ですからここはやはり悪いものから遠ざけて下さいとする主の祈りにより頼みつつ。祈りつつ。共に喜べる姿には時間の制約が働かないので闇がもう近寄ってこれない。そう思うのでした。もし、片方が落ちたとしても責めずに再度祈りから全うできるわけでもあります。ここでも諦めない(裁かない)で受け入れるが共に働いてくださいます。

ですから愛のうちに闇はおりません。おれないのです。

そんなかんじで神様と人格との交わりには何時いかなる時でも一対一が基本となります。どんな思想もフィルターも人格も通してはだめだよとおもうのでありました。

こちらは上下の凹凸両方尖ってるw
こちらは上下の凹凸両方尖ってるw

聖さの中にある汚れと清さ

聖さの中には
汚れも、清さも
色々な色も入れるし
だれでも居れるのですねと
感じて3度涙する。
聖いから涙が出てきます。

あ~。ここにとどまっていたいです。
あ~っと。(笑)

批判によるマインドコントロール

批判によるマインドコントロールに付きまして書かせて頂こうと思います。お時間が御座いましたらお付き合い下さいませ。

もうだめかなと思いましたことが、わたしではなく主にあって成せた事でしたので赦しの時間、回転を速めようと挑戦しています。この場合単独での挑戦ではなく御霊と共に挑む戦いでもございますね

もちろん私を赦せない方もおられるでしょうけど私ももうかれこれずっと赦せないことがあり某掲示板に私の名前と出身地が書かれて罵られているのを見た時、なんでしょうか。闇に引きずり込まれる様な感覚を覚えました。きっとその時は自分が生きてきた全てが間違いだと感じさせられたのだと思います。

しかしながら、今でもたぶん掲示板に残ってますがその分析は終わっておりまして、もう大丈夫なんですがそれまでは何度も何度も見にいきました。どれだけも否定されたことを否定しにいきますと。ん~。なんだか黒く腐っていくんですよね。内面の一部が(笑)。黒で黒は塗れないみたいな感じではみ出せば黒で無い所まで黒が増すみたいな感覚で御座いました。

批判の分析が大切

ですからそうならない様にどの様な分析かと申し上げますと批判の矛先の大抵は3つに分類されますから先ずはそこを整理させて頂きます。

批判の矛先は主に3つ

①作品や成果物に対する批判

②培って来た人間性や価値観に対する批判

③人格や存在に対する批判

この様な①~③の順番で心の深部に行く批判が効力を増す程、人はコントロールされやすくなります。意思が働かなくなるんですね。ですから批判は人格へのコントロールと捉えても大きな間違いではないと思います。マインドコントロールは徹底した批判から始めるというのも頷けます。(尼崎事件なんかもその一種ですね)(他にも何処にでも存在しているでしょう)

これはイエスキリストが荒野で受けた誘惑の一つと同じでして、もし私を(悪魔)を拝むならこの世界をあなたにあげよう。こちらに順当します。悪魔はイエスキリストの神性を知っていながらそれを批判してコントロールしようとしたんですね。

つまり、悪魔の様に選択は常に一つしかないとコントロールする毎に命の危険性が高まるという事で御座います。(この誘惑を知っているだけでもかなり強められますので是非知っておいてください。<(_ _)>)

それから

①番目の批判。
現代ではyoutubeで匿名での動画批判とかは作品や成果物に対してのコントロールの意図が見え隠れします。

②番目の批判。
価値観の批判や培って来た人間性の批判をしてのコントロール。ポジション。マウント。不等号等が用いられます。

この2つのコントロールこれらはまだ余裕が存在してくれます。何故余裕があるかと申し上げますと無意識にしましても意識にしましても作品も成果物も価値観も人間性も選択肢だからです。自分の人格への批判ではないからなんですね。それでも持っているものを取り上げたら子供でもふてくはされます。

そしてこの記事の最重要項目

一番闇をあててほしくない心の柔らかい部分は人格への批判です。

(あなたは愛されていないとか。容姿・能力・健常・環境・立場=人格だとかです)んなぁわけないw

人格は人間が触ってはいけない聖域でもありここを肯定出来ない人間性からは離れた方が良い場合が殆どです。(理屈が解っている方でしたら離れなくてもいいかもしれませんが)

その最たる理由は人格を攻撃する人間性はその人の人格だけではないからです。もちろん愛の聖霊も共にはしておりません。ということは意識・無意識問わず悪霊との交わりが強い人格ということになり一般的には信仰を未だお持ちになっていなければ太刀打ちが出来ません。御自分でなんとか出来るものではないんですね。どうかこの事実を受け入れて欲しいと願います。

愛している人の人格や自分の人格もそうですが意思を消そうとコントロールする力は成果や実績や声を用いましてもっぱらこの世の物(悪魔的な物)から出ています。時に声は風の様にある方向性を決めていますが扇風機代わり程度でいい場合が殆どでその風に帆まで張る必要はありません。いわばその風は進める風でなく帆を破る風だからです。

人格への批判をもう少し砕いてご説明させてください。

人格への批判によるコントロール。これをいいかえれば、過ちは絶対に赦されない。赦さない。もう取り戻せないという批判の事でもあります。赦しの無い世界こそが絶望世界ですのでこれを頂く時に人の心は最小化して闇が口を開けると個人的には思っています。(だけど死なないで)

私の経験上で恐縮ですが僕は50年生きてきまして絶対に赦さないを4回くらい喰らいました。何度謝罪しても赦されないのは事象より恐ろしい時の流れ方をします。

また身近な方からの裏切りや事業者からの裏切りやキリスト信者の方からの裏切りや、もうちょっとあるかな。忘れましたが何度赦そうとしても赦せないのは事象より恐ろしい時の流れ方をします。

なのでお伝えしたい事は決して人を赦さない人を赦せない人や時はこれからも沢山出て来ます。人がどれだけ謝罪しても受け入れない人や時は絶対にあります。

ですから救いの神は人に赦す事と赦される事を伝えようとしてご自分の命まで捨てたんです。人だけではそれが出来ないからですね。人がもし赦し赦されないなら私の全てを捨てて死んでも良いと宣言された方が愛であり神であります。人にはその様な愛は備わっていませんから赦しの愛は神様からの賜物でもあり、また共同で成せたときに人は初めて傲慢や序列や出来不出来の成果の縛りから解放されていくので御座います。

そして僕は人ですが人としてお分かち出来る事があるとするのならどれだけ人が人に人格的な攻撃をしてきても人は神が創られたのですから戦う前から既に勝っているという真理があるという事実であります。

ですので分析を徹底してください。また分析を頂きたいと願っています

よろしいでしょうか。実際の批判。人格への中傷攻撃は価値観によるただの選択肢です。それは人格から、神が創ったものからは出ていません。後から出て来た選択肢や価値観です。もういちど、なんどでも、お伝えさせてください。それはただの選択肢であり価値観でありますから厳密には自分自身の人格には関係がないんですね。たとえ私が罵られても私の人格には関係出来ないのが事実です。

逆なんです。批判の選択肢は常に罵った方の人格に関係しているということなんですね。私やあなたは選択肢でもなく価値観でもない人格です。神が創りたもうた人格です。こちらを徹底して見るべきです。

ですからキリストは人の価値観による選択肢で死に渡されましたが十字架上でさえも祈る事が出来たのであります。父よ彼らをお許しくださいと・・・。

また、全員の弟子が政治的開放を願い裏切ったのですが(私もそうです。私は経済的開放を願ったので当時の弟子と同じです)裏切ったのは弟子が選択した選択肢でありますから復活した後にあなたがたは裏切りという選択肢でなく選択をする人格であると笑顔で励まされ天に還られたのでありますね。徹底して選択肢や価値観ではなくて人格を視る。ここに愛が在るのです。

(纏めます)

①批判はマインドコントロールしようとする悪魔的な罪がその背景にあります。
②批判は選択肢で裏切りも選択肢で人格のあなたや私の方が遥かに尊いです。
③選択肢や価値観から人格は創れません。

どうぞ創り主の元に還りそこから人生を謳歌全うして頂きたいと切に願っております。

<(_ _)>

気分変調という言葉を視える様に

私の娘は時々、自分の事を気分変調性があってと・・・。教えてくれます。女性故の更年期やホルモンのバランスで感情をコントロールし難いむしろ心ではなく肉体的なバランスの崩れのことだと思うのですが、こんなお話を頂く事があるので図で表したらこういうことに近いのじゃないかなと思いました。

週間天気予報の図を引っ張り出させて頂き全体をみます。

なんとなく娘に限定という訳ではないのですが、人は日によって短気であったりしますので、天気を短気に置き換えてみますと(言葉も似ていますので)。一週間として考えられるといいますか。娘自身も私も一日の短気に引っ張られないといいますか。その様な意図で考えてみました。

こうしてみますとずっと短気に見える人でもどこかで短気で無い訳ですから、それはそれでいいですねと、なるだけ切り取らないで出来るだけ繋げてみる事も有用な時も御座います。

神様は一週間どころの範疇ではなくて、人の一生という時間軸で視ておられますので、私も続きたいですとお祈りする日曜日でございました。本日頂きましたメッセージの中に神様は時間の制約を受けないというメッセージが含まれていたからで御座います。☺

それから週間と習慣も似ている言葉ですので結び付けますと

<(_ _)> 私の起きてすぐ一番の習慣は主の祈りを祈る事であります。主の祈りは短いのですが願望では御座いませんので祈り切るのは本当に大変ですね。

それから夜寝る前には神の国と義を想い休みますと無茶苦茶うれしくなってすぐ眠れます。

神の国と義を想いますとその日の私の成功も失敗も成果も評価も比較も何もかもが神の国と義に上書きされましすのでグーグーと眠れます。(神の国と義を想う時に自己評価が関わってこれないので。)それはまた一日一日確実に近づいてくれているからなのだと思いますし、主の霊も共にして下さるからです☺

一日でも切り取らないでみていきたいですね。

言葉で出来た私と家内と兄弟姉妹

最近といいますかもうずっとですねディスカッションは家内と二人で行っておりまして、これはもう小さなキリスト集会やねと二人で喜んでいます。(晴れる家!!)なんだか昔教えてくださっていた先生夫婦みたいだぞ(笑)

そのような中、本日は言葉は神であった。こちらの聖書の言葉を考えておりました。

結論から申し上げますと人間は言葉で出来たと考えられるからであります。神様が在れと発した時に在ったと旧約聖書に書いて在るように僕も家内も在れという言葉が先に在ったので在ったのだよと二人で恵を分かちあっておりました。(選択は侵せませんが初めはみな神の子なら素敵ですね。尊重以外なにがあるというのだという信仰がもたらしてくれる開放も御座います)

その後に両親の生殖的な働きが在って今に至るという流れを考えていきます。また赤子の時ですら言葉を掛けながらあやしますと反応が違いますよね。

ですから人は言葉で活きていますし、生きていますし、いかされています。よく言われます言霊なんかもそうで言葉そのものに命の宿りを感じる事が出来るのは人が言葉から生まれているからだという確信に至る訳であります。

ところで皆様にとってどんな言葉がお好みでしょうか。

このように豊富に用意されています。☺

励ましの言葉
いやしの言葉
感謝の言葉
喜びの言葉
愛し愛されている言葉

そして、、約束の言葉(←個人的には一番大事です命と同等いやそれ以上)約束がないのに信じれないからでもあります。

人は言葉で出来ているので霊的に栄養価の高いこのような言葉は好まれます。しかし反対の言葉は書きませんがあたり前をもう一度考えます。

乾きますし、飢えますし、奪われますから 好まれません。

お願いされっぱなしなら乾きますし、ずっと感じれなければ飢えます。

「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによると書いてある。』」(マタイ4:4)

奪われるだけを考えてみますと厳密には自分の価値観の居場所を奪われるという事でありますから(価値観は貴方じゃないとかは一旦置いておきまして)

ポジショントークや
不等号トークや
マウンティングトークが効力を持つわけですが

価値観の居場所を自我だけではなくて例えば川と海と源流と考えますと川と海はどうしても汚れます。現実も同じく投げ込まれますのでどうしても汚れます。満ちたり引いたりもしますし、何度掃除してもダメなのは人間だけが言葉の世界に居る訳ではないからでもありますね。

また、

例外的には良き言葉も悪しき言葉も要らない価値観の居場所というのもありまして何を投げ込まれても汚れてしまう居場所なんかも在る訳です。(命懸けの場所に結構多いです。なんでもかんでも発信は自由ですけど貴方はそれを語るなみたいな感じの場所です。ごめんねw)僕も例外なわけないので、もしそこに投げてしまったらそういう時は謝ります。謝りやすい様に日頃から考えておくと楽かもしれません。誰にでも失敗はありますから。

時に汚してしまってそれ以上を投げ込まれることもありますが、(溜めてたのかな?あるのよこれがw)それでもそこが居場所なら何をどう投げ込まれても清流を沸かせるしかない訳でして、それこそ聖書の約束の言葉の様に生ける泉そのものを沸かせるしかない訳です。(実は聖書には源泉が沢山御座います。掘れば湧き出る源泉街!)一度沸いてくださればテルマエロマエではないでしょうか(笑)

♨に浸かって夜の飲食店に浸かって雑踏の奏でる音に浸かって。。。潤いのなかに居た

それでもしんどい時は(僕もそうですが逃げ方を憶えたい)広さを求めるなら海へ清さを求めるなら源流へと居場所を変えればその旅も楽しいのでもはや逃げた原因より逃げる過程が楽しくなったり(*’ω’*)掘って沸かせたり、逃げて目の潤いを沸かせたりで。

今週もお疲れ様でした。<(_ _)>

2022年のゴッソ芸人 (笑)

※つい最近ゴッソという鼻毛抜きを行いましたよ

薬剤が解けて少し鼻垂れみたいな形になって固形化し
クスクスの笑いを申し受けたまま家の中を疾走しておりました。

乗れる時には乗るよ。乗っちゃうよ!などと共に。
しばらくして。。。

えいやっ!って抜きましたらなんと!!
鼻毛だけでなく口ひげまでションボリ😞と抜けてしまいまして
皆、大歓喜!
鼻廻りを数字にしましたら7みたいでしたよ。ぼんやりしたナナw。

綺麗に一本取らせて頂きました。

鼻毛の方は数十本と髭少々。合わせて一本

ああ体を張る芸の尊さよ。
なりいきで活き。たまにやります(笑)

スローライフ万歳!

我が罪よ完了したを響かせよ!!!2022.4.20

昨今垣間見ます血で血を洗う戦争と
信仰で信仰を洗う闘争と
負罪を感じる時
どちらも元々の出所を想う時が御座います。

血に関しては体の中の流れですが
この流れは自分で意識せず流れている賜物であります。
賜物とは意識外からやってくるから素敵です。

人間の意思と関係がなく働いてくださる全てが
私の求道心を掻き立ててくれるからです。
その一致こそ張り裂けんばかりの躍動!

同じくして
信仰にありましてもその映り加減が薄くても厚くても
血流と同じく自分から出たものではない贈り物であります。
薄くても厚くてもその質感に数千年何ら変化はないはずなんです。

この様な自分のものでない中で活きようとした時
意識して活力を得ようと自ら働き掛ける時
実は創造に於きましては格差落差は一切ないと捉える世界が
幕を開けようとしてくれています。
幕開けの本質まで自分でしなくてもいい訳なのです。

自分でさえも創られたという認識から始まり創造主を想えば
想うが先に基づきますから自己愛からのみだけでなく
自分を大切にしてみようとする足掛かりも同時に付帯してくれています。
その足掛かりこそ愛が共にしている証であり本質でもあり
強く握ろうと優しく撫でようと変質を起こす様な事はありません。

愛と共にする場合、私自身が私が創った物ではありませんという意識ですから
私を存在させた方を想う時間が必然的に長くなりまして
自分を大切に扱わないとなんだかその方に
失礼じゃないですかと。。。馳せ続けると同時に
他の方への思いも自分と同じになり差が無くなっていくという
血栓のない循環が自然と生まれるようです。
むしろ血栓が可視化出来る事にも愛は大いに手伝ってくださいます。

加えまして血の流れに乗り視える世界景色が少しだけ優しく変わってくれる等の
温浴効果も御座います。
何れに致しましてもこれらは単独の働きではありません。
(スローとライフで二つと同義であります)

ですから何かを失ってまで
無理に自分で手放さなくても
手放せと促がされなくても
そういう種の物は後でも全然間に合う訳で御座います。
否定ではなくて順番に留意してもよいのではないでしょうか
押し出される様に手放せたら自然でありますので。

といいますのも創造主を想う手段に頼ること
流れに戻り感じる事がこの場合先でありますので
色んな物が未払いで不揃いで表裏さかさまでありましても

そのままでよい証は

真理と道と命。すなわち神にによって完了したと宣言された事により
命の群れが膨大な奇跡と命の血流が無数に存在し、
人によらずにまだまだ現実に増えていくからです。

その様な折り
何を信じていようと自由とはありますが
実際にその自由は、その客観性は
喜びに満ちていますでしょうか。
自由とは名ばかりで時に自分自身に束縛されている鎖も
誰にだって存在しているのではないでしょうか。

ごくごく単純に子供の様に救われたと歓喜する声が
雪崩の様な歌声と共に救われたと躍動する命が
日毎に増えている事実が
自分にとって(自分の価値観にとって)
たとえ無味無縁の働きであったとしても

自由にある客観性を用いまして
私事として本当に喜べる人類に還る事が適う。
私の今はその様な希望を見出しています。

なので本当に共に喜べていない原因は
自己崇拝という罪が在るからだと確信しています。

そうしますと

愛と信仰が後の多様性や価値観を喜んでいるのであって
価値観や多様性が愛と信仰を喜んできたのではないと私は感じます
もちろん愛と信仰を価値観の中に押し込もうとした
新興カルトの弊害もありますが
初動が何であったかそれに応え歴史はどう応えていたかの変遷で解ります
どちらも持たせて頂いたのでそう感じる次第で御座います。

たとえそうではなくても
救いは値無く人の価値観の内には働かない恵です
(贖いはそのままの姿でどう映ろうと既にで完了しているからでありますね)

たとえば多種多様な価値観の中に在る負罪
偶像崇拝も占いや魔術や口寄せや学問が生む負罪。
またキリスト教や宗教が生み出した負罪。
全てが生み出す負罪の贖罪は既に完了しています。
もう終わったんです。
終わらなければ何も始まらない。キリスト者はその様に捉えています。

人類歴史上を全体で視れば負罪があまりにも多大・多様すぎて
贖罪が神でなければ、タダでなければ今の時事だけではなく
人ではもはや払えるレベルを事実として超えている事は誰が視ても明らかです

ですから
値が付かない程の負罪なので値が付かない方しか払えないのでありますね。
(僕も消せませんがタダで払ってもらいました。)
この様に自分だけの罪の贖罪だけでない二つ事を喜んでいる次第です。

ここに連ね神の国と義を求めることが適い
その後に自分の十字架や自分の様に人を愛せよという活きが
自然に感じていけるように御霊が近づいて来てくれました。
私個人の事実としては自分が思う悪習からの開放が齎されました。
求められれば何時でも証はかないます。

一般的には価値観や思い込みと誤解されがちな信仰という賜物ですが
信仰は主権者への隷属ではなく自己崇拝からの開放ですので
(全然しんどくはありません)
自分自身が一番の偶像でもあるのですから。
誤解はそこから生まれているという事でもありましたので
価値観や思い込みの一枚板だけではままならない事もありました
ですので愛という仲介してくれる方の必要性がますます増す訳で御座います。

そうしてゆっくりと重い扉を内側から開く鍵の様な物が
頂いた鍵であり信仰なのだと僕は感じており
その鍵は金でも銀でも銅でも鉄でもなんだって良く
鍵と手と二つが同時に働かねば開きませんから

出たくなければ出なくても主も扉も何時までも待ってくれます
待ち続けた故にその時の歓喜を誰よりも共に喜んでくださるでしょう。

また大地に根差した一凛の花が好みの方と
活け合わせて飾る花が好みの方の様に

一神、多神 問う前に私が信じて仰ぎ見るは
(贖いはそのままの姿で既にで完了している)

この一点のみ。この大前提のみ。で御座います

これを崩してまで自己義認に戻そうとするのが悪霊の業で
彼らは意識無意識を選びません。

なので悪霊はもう無理ですが人にはまだ救いが御座います。

悪霊は神を知りながら欺いていますが
人は神を知らずに欺かれているからです。

その様な訳で皆々様に麗しいこと良きことが溢れますように。
また私を想い祈ってくださった兄弟姉妹に感謝申し上げます。
ゆっくりと歩ませて頂いております。

<(_ _)>

十分に足りているかどうか

本日は2レプタ硬貨を献金した御婦人のお話を考えていました。

最初にこのお話を聞いた時は
へぇ~キリストに褒められる程の信仰なんだ。
凄いなぁ。。。と
ただただそれだけの印象で

まぁ、自分も何れはなんて。。
随分と働き場所を誤っている感性ですけど若いし反発心もあるしで
変に混ざっていたのを思い出します。
(今でも混ざりますが、分けるの大変ですがw)

懐かしのバイブルキャンプ。反発しながら学ぶという私。既にわかくて頑固でしたから砕いて下さった先輩に感謝

反発心があるので深く考えれない。
なんてことも気付かないしとにかくまた忘れたりして
年数が増して(もうそろそろだなぁと)また考え直しますと

そうですね御婦人の様に

自分の中にある物の内の全てを献金するという事は
自分の中にある物の全ては
自分の物でないと考えているからとも考えられるわけで

こちらの齢にてはもう求めることの手数が減り
与えられた物をお返しするという感覚なのでしょうね。

私にはもう2レプタ硬貨でも充分ですのでお返しします。
この様な心持ちなのではないのでしょうか。
その様に考えておりました。

ここはもういよいよ神と人との一対一の祈り場でもある訳です

僅かに見える2レプタ硬貨を十分として
余っていると感じるご婦人の霊性なる場所に居らせてください
それはきっと足りている事が前提になるでしょうから

個人的にご婦人の行いは誓願による献金だけではない様な気がしますが2つの内どちらでも選択は可能ですので難しいのであまり混ぜないでおきたい箇所で御座います。そうしますと下記の聖句が生きて働いてくれる実感が共にしてくれていました。

『わたしの恵みはあなたに十分である』コリントⅡ12:9

美しさは定義されているか?

今回はこちらの動画から頂きました考察記事となります。

ダチョウはアホですというタイトルがかわいいですね☺。先の罪の定義のお話と合わせて考えていましたらアホと罪は別物だという事実を前に置けます。コトッ。

さて、こうして拝聴しておりますとダチョウは自分の子孫を反映したいという極めて利己的な進化の理由に該当していないという事実がありますからアホすらも美しく感じてしまいます。

たとえ脳が目より小さくてもダチョウが美しいと感じたのは人生初で御座います。ありがとうございます。笑

きっとこれは出所が同じなのでしょうね。

そうしますと美しさの定義としましては利己的でない事が浮上します。

利己的でない事と、利己的であると告白する事と、まだあるかな。。。利己的でも赦される事と(赤ちゃんとか)

もはや人間側が定義する事でもなんでもなくて創造された通りを表現している様が美しいという私の感性が廻り出す次第であります。極めて利己的な進化による変化や淘汰という理論は美しく感じないのでありますね。(私の場合はです。)

この様に人により感性が不確かな場合は学校でも2択で教えればよろしいのにと思います。一つしか選択を提示しない事も国家としての利己の延長かなとおもいつつ、洗脳っぽいなと思いつつ、ここはもう。を付けさせていただきまして。

それからまた美しさは単体のみで働いているだけではない様です。

だめだったぁ~。と肩を落とす事もこれから何度も何度も遭遇する事でしょう。だけれどそんな時こそ極めて利己的な進化による変化のみならず、だめだったぁ~。と肩を落とす時に美しさが共にしてくださるのかもしれません。だめだったぁ~。と俯くもそれだけじゃないよと創造美が共にして下さるのだと。

(夕日とかは特に大活躍してくれますね。普段はそう感じないのに・・。)

(何を感じるのかが極めて重要な私の人生でもありますから、私の人生でなく主と共にする歩みでもよい訳です。洗脳じゃありませんよw)

※私もダメだったぁ~っと一旦は咀嚼しまして店舗住所を北摂に戻そうとして今整えている最中で御座います。ここに来て3年半でしたが、先日の2022.4.14日に明確な理由が訪れて下さいましたからです。※

その様な訳でして私は最初から美しい方とアホな方と可愛い方を選択しようと思います。

<(_ _)>

罪を考える何度も皮を脱ぐ幼虫

こちらの高原さんのyoutubeでのメッセージを受けて考えておりました。罪とは神の基準であり、人間の基準ではないという事を御説明されておられます。コメントされている方も秀逸な証や考察が御座いますのでお勧めです。さっそくですが

日本も世界も良心を中心に出来ているので全ての良心を合わせれば。
こちらの考え方と
日本も世界も良心を中心に出来ていないので全ての良心を合わせても。
こちらの考え方

日本を中心に世界をみているのか
世界を中心に日本をみているのか

日本人は特に前者の方が圧倒的に多くこのような捉え方の相違はございますね。

横暴な独裁者でも酒を酌み交わして話し合いで何とか和解出来ると考える若者の心情も民族性から考えましたら理解出来ますが、それが適わなかった時の心の準備も同時に整えておかなければならないとも思います。

これにより今回頂いた高原さん個人の課題メッセージで浮かんだ事は脇腹に穴が開いたまま弟子達に語られる笑顔のキリストの姿でした。

何度も自分の良心に照らし疑いの手を入れても良いよとされている姿ですね。ですから高原さんはじめキリストに在る方はキリストに似て来るって本当だなと思います。(ほんとうに少しづつ少しづつでありますけど)

私の場合は何かあれば自分の良心を守りたくて直ぐに何かしらで傷を埋めようとしています。その時に罪を犯していると御霊によって自覚は出来ます。自分は悪くないと叫ぶ良心が罪を犯しているという事でありました。
ですから尚、良心や価値観で罪がどうにか出来る訳ではないと最低限自分自身にはその様に考えられる訳です。

その様に続いて参りますので象徴的ですけど価値観や良心による傷穴は開いたままでいいとしてそのまま復活されたキリストが好きな訳です。(弟子のトマスはこの穴に自分の手をいれて信じました)また受難のキリストが好きな時と復活のキリストが好きな時があり、温度差がありこちらも悩ましい所であります。(良き悩みですけど)

そうしてなんとかして、ちょっとずつでも主に似てくるかしら・・・。と、おもいつつ。またそれが楽しみで拝聴させて頂いております。

実は幼虫が蝶になる時に幼虫が古い皮を何度も何度も脱ぎ捨てている事と似ているなぁとも感じながら幼虫を蝶の前身と視ないで、幼虫も蝶だと視ている神様が好きな訳で

(私の目にはあなたは高価で尊い イザヤ43:4)

一日を生きる

みなさまこんにちは。親方の鈴木です。

世界情勢が緊迫して中々気が休まりませんね。僕もこの世界情勢はエゼキエル書に書いてありますロシアが絡んでおりますから目が離せません。

さて、

今まで頑張っていた仕事や趣味が頑張れなくなる時ってありますよね。なんだか、乗り気じゃないなぁ~なんてとき。

たとえば・・

『やっと気付いた。この仕事、しんどい』

漬物屋さんの親父様がつぶやくこちらの写真。。。

お疲れ様でした。。。<(_ _)>

あ、でもこころなしか

気付いたという事ですので今はしんどいの中に居ないという事は素敵な事ですし、その様な心持ちのお顔である様にも思います。

に、してもですよ

しんどいのはしんどいので

なんとかしたくて頂いた中で最近実践させて頂いておりました事を書いてみようかなと思います。。

個人差もありますし、しんどい自体が色々な要素が絡んで決定的な原因が解らないので解決策のお話ではないのです。

解決となりますのはそもそも人間一人だけでは無理な気がしているといいますか。。。一人だけだとどうしても客観力が不足がちになります。僕なんかは尊敬している人の意見や愛する方からの提案を受けた時にはじめて客観視してみようとするほど頑固な一面も持っていたりしますのでこれなんかもやはり一人ではできていない典型的な例の一つでもありますね。

ということで

僕の場合の初めから自分を客観視できる具体的な方法ですが

『一日を生きる』

これです。

これだけでは、何の事だか解り難いのですが

こちらの意味は

『一日を生きる』の中に

仕事や食事や睡眠や若い方でしたらデートとか趣味が在るという生き方の事でありまして

仕事や、etc,,の中に『一日を生きる』や『一生を生きる』を入れてはしんどくなりがちになりませんかという事でもあります。この様な意識の扱い方と捉え方の変更の事でもあります。

もし今、何かに捕らわれていてしんどい時は、逆に捉えてみるという発想です。袋の中に色々入れてから出発するとちゃんと隙間が予め備わっていると例えられますし、袋に入らずに袋を使ってみるという意識の例えでもあります。順番が大切なんじゃないかなと意識しています。

僕にとっては結構いい感じで毎朝の祈りと共に余裕も生まれています。ほんの隙間が予めありましたら摩擦も生まれ難くなっているようです。

『一日を生きる』って言葉も実践も生まれた時から先に備わっている恵でもありますし、なんだか優しいですし、一日に愛されているような未だ少しの実感と隙間ですがそう感じました。

読んでくださってありがとう御座いました。☺

Posted by 鈴木 大輔