羨望や嫉妬との戦い方。
私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。
マルコ4:36
私は蛍を探しにいきました。ひろちゃんはコクワガタをずっと探すw。次女はくっついてきただけ。長女は独立してますのでもう家にはおらず甲虫幼虫をそだてたり、漫画本の棚が一つだけある部屋を設けていたりで、秘密基地状態でした。オサレがどこにもおらずなにやってんでしょうね(笑)
そのように頂く日常を織り込みながら憩い。わたしにはこんな想いがキリストにあって常駐しています。
わたしではなく
愛で愛したい
親切で親切したい
寛容で寛容を成したい
etc、
この時に僕の頭角が一番妨げになる事を知りました
それは
主の道を行けば そうなることが 予め解っておられたようにキリストは徹底して信仰の在り方の手本を聖書を通して残してくれています。
これは霊敵(サタンや悪魔)への憤りが満ちまして万軍の主の末座についてゆきたいと憧れた時から末座の真意。それは謙遜の纏いだけではなく誠に末座に付く事は末座以上の意味を成していると教えてくださいます。山の裾野からでなければ天の高さは山の頂きより高いと解らなかったからです。
私自身が信仰よりへりくだらなければ、末座が共にしてくれなければ
愛で愛することも
親切で親切することも
寛容で寛容を成すことも
叶いませんでした。
わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。
といいますのは、既に私が頂いている全ての恵みが信仰によりますれば真理となるからでございます。もしかしますとそれは自他の目によりますと目劣りするかもしれませんし、目劣りしないかもしれません。
しかし、真理に見えない小さなものでも大きなものでも神から出ていると信じることによってそれは宝の様な輝きを放ちだすのでした。真理とは神から出たもので人の目によるもの(自分の目や他の人の目)ではないからです。
今の私やこちらを読んでくださる方々の生業がどの様に人の目に映りましても『わたしの恵みはあなたに十分』と神様が仰ったように(小さくても、大きくても。足りていても。足りてなくても。たとえ自分の目がその様に見えてしまっていましても)安心してその腰に締めなおせると主にあって強く感じます。
( ^^) _旦~~ ありがとうございます。神様の平安が私達にいつもありますように。
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