『信仰』がもたらす本当の自由
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。
ローマ人への手紙8:15
本日はこちらの聖句の導きを受けておりました。それは湖のほとりで魚を釣るのですが思いもよらない大きさの魚や、または思いもよらない色合いの魚が釣れてくれるように。🐟 。または霊の成長が永久に続くのでしたら何時誇ればいいのでしょう。永久に霊の成長が続くのならば誇る必要が無いかのように🐟🐟🐟
ところで宗教や『信仰』と聞きますと日本人の感覚や価値観で湧き上がる思い込みや思い込まされは『不自由』これに尽きるのではないかと思われます。あらゆる否定的な『信仰』の捉え方故にこの感覚が鎮座していると思われます。
※その理由としての強制的な勧誘や霊商や事件が過去ございましたが。(本来カルト信仰と信仰は関係ありません。信仰は欲しいと願う方への神様からの贈り物で、カルト信仰は自発的価値観だからでございます。自発的価値観は悪魔的ですのでどうしても人を縛ろうとする性質を帯びています。)
それで長い間囚われている言葉としての『信仰』それこそ人生観を覆すような自由を今この記事で書けるとは思ってはいないのですが、少しだけでも誤解を解きたいと願いつつ本当の自由とは前提が無くなる事であると私自身はそのように神様によって生かされてまいりました。
自由を突き詰めますと自由を得る為のお金や時間や価値観や実績や名誉が本当の自由には必要ないはずなのですがその見え方は血流ではなく表面で膨れ上がったカサブタの方が大切であるかのような見え方を呈していますがクリスチャンはこのような前提がありません。
なぜなら自身ではなくキリストがこの前提を取り除けてくださり、冒頭の御言葉のように自由の御霊を信じる人に与えて下さると信じて実際にそうなっているからであります。『信仰』が束縛ではなく本当の自由を与えてくれているのですがクリスチャンも気を付けなければ自由で自由を縛る機会に誘惑される時が全くのゼロではありませんから聖書のみに信仰を置く訳でありました。
また『信仰』を疑ってもいいと僕個人的には思いますが、疑ってばかりいてはずっと自力救済に頼り続けますので本当の自由に心を置いてあげる事がより難しくなります。『疑い』こそ創世記という聖書の初めに在ります通り人間が神から出ていないものを受け入れた最初の罪でもあるからで、相手中心、神中心で心を運びますと自己中心性を土台としている疑いは出て来れない事実がこれを裏付けます。
それは自由を疑っているのではなく『信仰』を疑う様に創世記からずっとそのような情報を何千年も浴びているからでもありますが、こうなりますと何千年も『信仰』を疑わせる働き掛けの方を疑いまして、『信仰』の方を信じる事で自由になるという事実でございます。(とにかくバランスが全くおかしいのですね)
私個人的には、『わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』こちらの聖書の御言葉をずっと壁に張らせて頂いて参りましたが、今や明け渡しが律法ではなく約束を伴っている神の言葉だと確定しております。自由が自由を縛らない理由は聖書の言葉の力によるものであるからです。聖書の言葉。神の言葉は空想話や良き道徳ではなく御霊によりますがその力にあるのでございます。
どうかこの国で『信仰』は不自由という固定概念が崩れ、信じようとする全ての方に自由と平安が永遠に続きますようにと願います。それはまるで何時誇れば良いのか判らないくらいの永遠と平安でありますようにと願っておりました。
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