信仰のタネ
信仰のタネの発芽状態はタネの実物をみてみますとその有様の通りに自分の人生観に乗っ取りまして開く葉と神様の視点に乗っ取りまして開く葉の二つで育まれていく様でございます。
先の記事にございます鼻で笑うという誘惑は具体的に何だったのかと申しますと南無阿弥陀仏より南無妙法蓮華経のほうがより上位に位置する教えであると教えて頂いた時、また日蓮は釈迦の500年後の生まれ変わりと教えてくださったとき、それとキリスト教は植民地支配を目的とした宗教であると教えてくださったときでございます。そこからの後処理でございましたが人生観を蹂躙されバカにされ踏みにじられた土台からその葉が開き自分達の宗教が他の宗教より上位に位置している誘惑を掴んでしまうお気持ちは痛い程理解出来るもので御座いますが事の本質は宗教や暮らし向きの上下ではなく傷んだ人生観や踏まれた価値観の方だと私は思いました。また輪廻転生が誠であるなら釈迦は誰の生まれ変わりなのですかという質問に答えが無かったからでもありました。しかしながら鼻で笑った事実は私にのしかかりましたので(それが悔しく悲しく)お風呂場にて悔い改めの祈りに勤しんでおりました時に頂きました花で藁帯びという語の変換は私の個人的な慰めとなる一つの知恵でもございました。続き神様の視点を聖霊により頼みお借りして視つめていますと人はどんな宗教を好んでいようと神様の娘や息子に変わりはないのでございます。母の胎の中で起こる事象は生まれてから起こる事象の真逆でありますから崩壊へと向かう世の事象から母の胎の中にある創造を生む事象はその発想が先ず起こりえない事が先に起こっているのであります。この視点も私に必要なもう一つの葉の開きであり主が語られました通りに私のくびきは負いやすいとの言葉そのものでございます。私も疲れていますし重荷を負ってきましたので主と共におらせてください休みながら働きたいのです。MRI・CT・血液検査を通しましても原因不明となりました両腕にありますおそらくコロナの後遺症も少しだけ御座いますけど、それより罪の後遺症はどれ程愛し合い難くされているかを何時も覚え二葉こそ一日の始まりでありますように。信仰の有無ではなく神の娘さん。神の息子さん。の方。
しかし高ぶらず、ふと、なぞります(分析でございます)霊敵はいつもそうで心に葉ではなく刃を置きますが君が動いたから切れたのであって私はただ剃刀の刃を置いただけという言い分を常に通しています。私は切っていない切ったのは自分ではないのですか?と。。。葉を向かえるのか刃向かうのかの選択はあっても願わくば葉の方に歩ませてくださいと祈る次第でございます。
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