2020年08月29日

みなさまこんにちは。何時もありがとうございます。
今日は、言葉はたくさんありますから、どれでも手に取って好きに描いてみようねと、神様から渡された絵の具の様な気がさせられました。言葉で色々描く事が楽しければいいなぁと思っています。そんな今日は言葉で河を描こうと思いました。人の内面と神様がお創りになられた外面との橋渡しを促す様に。その橋の上でスケッチブックを持つような感じで描きます。

今回の記事、実は先日ある方に(神様は求めぬ者に無理に与えたりはしない)とお伝えした事の表裏を一致させるが故なのかもしれません。本日の記事は今一つ動機が不十分ではありますが、一つだけ、神様は愛の方ですから徹底して選択の自由を奪う様な存在ではありません。ですから求めて与えられるまでに、もう拗ねて泣いて寝入ってしまって求めた事すら忘れていることだって人にはあるのです。その時のやるせなさは測ってもしようがないですよね。

それでも与えられる事があるのはその人にとっての最善が何時で何処なのかを神様は知っておられるからです。この様な事は頻繁に起こりますし、常に目を覚まして居なさいという御言葉は目を覚ましていた方がその瞬間・瞬間も味わえて喜びが大きくなるからなのだと私は思います。(出来る範囲でも味わえる恵みの本質でもございますね)

また、神様の前提は常に伝えた事は全て善き事に繋がるという完全な約束が担保されております。親が子に担保する事柄に似ています。親が張る約束これが落ちる時の震えは祝福の元にあるのなら、子が親に期待した担保よりもはるかに大きな恵みに繋がっていく時がありますが、人からの祝福が必要の無い神の担保はその髪の毛一本ですら落ちる事はありません。ですから信仰者はここに全てを掛けられるのであります。この様な感じで表裏が合うでしょうか。あ~でもぎりぎりな時もあって言葉でどうにかなる時間ではない時もありますよね。その時はお互いに待ちましょうとだけ。スケッチの様に筆を休めるときは良く視て感じましょうと。

この様に眼に見えぬ内面の構造を視える形にしたいと願いつつも、それらは求めて居ない人には届けられないという事であります。それは揶揄ではなくて、求め方や歩み方や生き方は皆それぞれ違いますし、もともとから降っている雨の量や恵みの量も違います。ずぶ濡れに濡れるから求め伝え表現をもがく訳ですから、その部分に至りましてはしょうがないのです。それをどうすれば?しょうがないと優しく笑みながら手に取って頂けるかが、今回の私にとってのポイントでも御座いました。

先ず初めとしまして、人間の内面は心と感情だけではありません。負荷を分散させるが如く心と感情を客観的に視る事のできる魂が人には備わっています。

また、魂とは感情の支配力がとても強いのでそれを抑える霊的な力の事でも御座います。この存在は理性とも呼べますが理性は自分単体での働きであり、魂は複数体での働きですから支配力に打ち勝つ力としましては魂の方が強いです。なので信仰者は祈りの重要性を知っていて、祈りの中に在ってどの魂と結ばれてあるかを執拗に吟味して感じ取らせて頂いております。私の場合は益ではなくて愛が土台の御霊との交わり以外に必要ありません。この魂は誰にでも備わっていると信じていますのでこれを前提として続けさせてください。

では具体的に魂を用いて今、目に見えて、在る物で表現してみますと(河)がとても解り易くて捉えやすいと思いました。河川の河の事で御座います。どちらも3を示唆し私にとっては、とても心地良い感じで御座います。

心と感情しか無かった幼き内面の支流がやがて本流へと注がれて行く、この本流はまさに心と感情が憩う場所。魂の在る場所の事でもあります。魂の公性は合い入れ難き、支流の私情とは少し違い、色々な心と感情、もしくはそれを帯びた価値感覚や価値判断、主義主張の居場所でもあります。これらが溶け合っているから憩えるのですね。そうしてこの本流はやがて海を求めて流れて行く在り様として感じ取れますし実際に目視も適います。

ここで私の場合は海を神に例えて視ています。海は河よりも大きいので河は支流を受け止めつつも己を誇らず海を誇りとし、海もまた河の為にあってその命の全てを繋ごうと懸命であります。

何故なら、海は河が我慢と忍耐を持って。それしか無かった。出来なかった、涙とうつむきと零しを持ちつつも言葉にしないで、支流を受け止めて、受け止めて、受け止めて、受け止めて来た有様を知っているからですし、一部は全部だからだと海は河にも支流にもその大きさを伝えに来るからです。そうして河をみても支流をみても海をみてもいいようにと条件等なく、神は在る事を絶対にやめないのであります。

支流・本流・海と、それぞれにおいて働きも違い完璧には程遠いと嘆く事はありますが、全体を捉え直してみるとその単体の役割の愛おしさが増すという事でもあります。これをまた、遊園地にある情景に置き換えますとかつてはとても華やいで今は誰も乗らない乗り物に影は落ちていても、遊園地全体で捉えましたらその悲哀の必要が増していく比類無き夕暮れの美しさにも相当いたします。これは遊園地の全体経過を魂で視れているからです。(誰でも共に視て感じれます)この時間のラーメン。。。嬉し美味しではありますが小さき喜びといえど湯気と受け入れ吸い込む鼻が一番喜んでいる気がします。この時にも小さな流れがあり。

また、もし河の流れを求めて上から視る事が適いましたら、それは一人一人に手渡された地図にも似て、各々形式の違う地図やエグレ方や汚れ方の地図はしょうがないでいいのです。(特に汚れ方)これは、しょうがないし、どうしようもないので、変えるとか変えないの問題では御座いません。でもここに触れていましたら人は視方が変わりますし、その人が望む様に捉え方も変えられていきます。それが信仰でもあり愛の技でもあります。

(信仰故に)

写真の様な事をなさる方を(汚れてイビツのままの貴方を愛しています)とキリストがこの世に来て下さいましたが、善悪を知る罪を帯びた故、汚れてイビツのままを愛せない人間はキリストを受け入れる事に躊躇います。ですのであらゆる形で鍛錬し、無視し、また殺しますが、キリストはそれをも受け入れました。

何故なら、殺す貴方を今も救おうとされているからです。今も人間は霊的にはそうなのだと思いますが、身綺麗で美しい物や者だけが愛されるとずっと信じさせられてきた呪縛を解こうとされているからです。身綺麗で美しいは個人差が出て然りですが愛は個人差の内には働かないで個人差の隙間を埋めようとしています。何故なら神は愛だからです。

(⋈◍>◡<◍)。✧♡

この様な訳でして私にありましても同様に、もう一つの神格である御霊の働きがあって、自分で自分の力や経験や学問や家柄でキリストを信じたという事ではないという事が解るのです。(家柄は貧乏ですが貧乏を誇ると・・)ですから信仰とは、傲慢に捕まる事が無い神の恵みであり真理の働きでもあります。

そうして、この一箇所の働きといえど、ほんとうのありがとうも頂けますし、贈る事も適いました。もし正解があるとするならばこの地図が正解なのだと思います。地図を広げて視ると自分が何処にいるのか、また関わってくださる方が何処にいるのかが視え少しだけ指刺すのではなく手で触れる事が適います。触れる時にはまた、神の言葉が手伝って居てくれます。

(河)

河といえば、キリストが洗礼を受けた場所も河の真中でありました。洗礼を与える方が洗礼を受けた場所でもありましたね。伝える人が伝えたい人よりもへりくだる事が公の場所ならではの本性、すなわち愛の働ける場所の事でございます。

安倍首相が辞められるそうです。私の祖父は志願して散り咲いた魂のカタマリの様な方だったので、過の日、日本を取り戻すと拳を挙げられた事、成る成らず問わずして本当に嬉しかったです。ずっと祖父の尊厳は何処にあるのか?取り戻せていないではないか?と折に触れて想っていたからです。公に惚れ公に準じて公に殉ずるもどかしさを、いくばくかはこの身なりにて知る若輩では御座いますが、本当にお疲れ様で御座いました。どうかお体御自愛くださいませ。

さて、

それぞれに善き捉え方に恵まれましたらとても嬉しいですし。恵まれるなら誰がどうこうは全くの意図もありません。読んで頂きましてありがとうございます。どうか皆様と私にすべての方にすべての国々に沢山の恵みが絶えません様に切とさせてくださいませ。😊