2020年08月16日

何故あなたは手に持ったのか

皆様こんにちは。何時もありがとうございます。
今日はといいますか、昨日からまた、(何故あなたは手に持ったのか)この事をずっと考えていました。ずっとは大げさですけど、ふと思いついた事を心内で繋げていますと、また違う課題が浮かんで来ましてまたその課題との関連性を繋ぐという事をやっていますので、支離滅裂といいますか文章なのかどうなのか解らない文面になったりしますし、それらを善き善きと解釈すれば文面でなくてもええやないかとさえ思えてしまう有様でございます。ですのでブドウの実の様に摘んでいただいて腐ってると感じたところは避けて食して下さいませ。

さて、タイトルの(何故あなたは手に持った)のかは、旧約聖書の創世記に出て来る善悪を知る実の事で御座います。この実を当時の人が食す前に先ずは観てそれから手に持ったという光景が浮かびますが、見た目に良く麗しい物は手に持ちたいという衝動と欲求はこの時に生まれて埋め込まれたのだと私は信じています。といいますのも、人間の本性が何故そうなのか?と伝えてくれる記述や文献が他には無いからです。ですので元々の人は善も悪も知らない生物で、知らないからこそとても素直でとても優しく暮らしていたと信じていますから、人に限っては強い種だけ残したいと思って他の種を淘汰する様な事は起こっていないと思います。その様な発想は人間に罪が入り込んだ後の発想だと私は考えています。人間は生物ですがそれだけではありませんので哀しい自死が起きてしまう。または人故に自己犠牲の精神も生まれる。これらは進化や自然淘汰の観点からは到底説明が出来るものではありません。

この様な前提で(何故あなたは手に持ったのか)を考えていますと、先ず手に持つ対象として挙げられる様々な物の中にどの様な物があるでしょうか。手に持つという事ですので自分がその温度を感じるのと同時に自分の温度もその対象に伝わっている物といえば、愛情や正義、真理や友愛または家族愛等が挙げられます。たとえば手に持っている時にだけ実感出来るというこれらの物を、もし手放した時にでもしっかりと実感出来ると言われましても、長年の癖もあり、それはとても勇気がいる事でもありますし、そもそも手放す必要があるのかとさえ考えてしまいます。しかし人間は熱すぎると手放しますし、寒すぎると手放します。適温適度もまた手に持つ条件に挙げられる程に手は強い器官ではありませんから尚の事、愛や真理や正義を手に持つ事の罪はあらゆる個人差はあれど個人的にも嘆かわしく続けられてきました。

私はそうした中に在りましたので、正義も愛も真理も本来持つ役割の事をよくよく吟味してみましたら、やっぱり手に持ってしまうとだめだと見据えてしまいます。持てる量が初めから少なすぎる事と冷熱に弱い。そうしますと手にはもっと他の役割があり、さすったり、つくったり、かしたり、ささえたり、おんぶの足ささえ、見え過ぎる目を覆ったりなど、手にしか出来ない役割があると視えて参ります。

ですから私自身もよく誤解する事もあるかと思うのですが、手の働きを頭に持ってくるから話がややこしくなるのだと思うのです。正義の話をしていたら正義でいいですし、原理の話は原理でいいのです。愛の話をしているのに正義や原理を持ってきちゃだめなんです。混ぜるな危険で知らず知らずの内に異種格闘技が煙の様に勃発してしまうのですね。他にも真理、救い、福音、御言葉、剣、盾とか豊富に沢山備えられていますが分けて話して繋げていけたら素敵です。

この様に、できるだけ手は空の状態でないと元々描かれている物。在って在る物を見れなくしてしまうとも感じれますし、本来愛や正義や真理は神様が語り掛けた本質と同様に在って在るだけで良く、手に持って振り回せる程の小さな物ではないと私は捉えています。

その様に考えていますと常に関わって頂く他の方の視線が私の手に向かって頂くと信仰者としては非常に判断が難しくなってしまいます。といっても実際困る程見られるケースは稀ですけど、自分よりもっと大切な存在、もっと大きな場所を一緒にヘラヘラと視ていたいのであります。ヘラヘラは見積もりが軽いかもしれませんが、希望が在る時に、共にしてくれる時に人はヘラヘラします。ヘラヘラは最低2人から、一人より二人の灯の方が良く燃えますし、何時か灯が要らない世界の到来と喜びは何世紀、何億人の地鳴りと共にやって来てくださり、今頂いている五感だけで測り様がない、捉えようがない歓喜を目にする事になるのです。ですから私の生業は今の世の為だけの生業でもない訳ですが偉そうに語る訳でもなくて、大真面目な希望であり約束です。約束と希望からの考察が私は好きです。

↓ここから種目が変わって床を飛んでるつもりが鉄棒になるんですが場所は同じです。

(支配と支配人)

また、手に持つという言葉は支配とも置き換えられます。愛を支配したい。真理を支配したい。正義を支配したい。等、よくある人間の内面のケースとしては下記の様な事例も挙げられ、これらは皆手に注視した結果が招いていると感じます。

支配されたくないから支配した
支配されたくないから無関心になった
支配されたくないから逃げた

これらは皆手段、その言葉通り手に持つ段取りの事でありますから、ここでのお話は何故にこの手段が必要なのかのお話でありました。この手段を取る前段階のお話をさせて頂いたつもりであります。

ところで、支配といえば重くなりますが、支配人と聞けばどうでしょうか。なんだかニュアンスが一気に緩和して来ます。言葉ってやっぱり面白いですね。実はこの支配。(何故あなたは手に持ったのか)に栄光の輝きは既に充てられていて勝利は既に収められています。

それは誰かが誰かを
(支配させたくないから 支配された方)
そうです。キリストであります。キリストは私の為に人の形をとり私に支配される事をも善しとされた唯一の神様です。私に支配させたくないから御自分を支配させた方の愛と本性と本質を感じる時、僕はもう本当に何も要らないとさえ喘ぎ漏らしてしまうのです。。。。キリストは神と人との仲介だけではなくて、人と人との仲介も成して下さいます。ですから私は神様が視る物を見たいので手には何も持ちたくないのであります。

また、キリストは十字架でこうも祈りました。
父よ彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか自分では解らないですから、と・・。
この執り成しの祈りは霊的に満たされた方の苦難・艱難時の慰めにだけ用いられる祈りだけではなく、私が私で何をしているのか解らない時にも静かに触れる事の出来る一筋の灯火でもあります。キリストは今も私の支配人として私を執り成してくださっておられます。そして解らない事があれば何時も尋ねて聞いていますし、それらは全て答えて頂けます。その様な訳でして私には既に支配人が居るので支配もしたく無いですし、支配もされません。

「自分自身の手を自由にしてあげたい」
そんな感じのお盆休み中の考察でありました。
今日もありがとう御座いました😊。