2020年08月10日

らくちんに生きたい(笑)

私の内面のコアな部分と
コアを取り巻いている外殻があって

コアな部分にはやっぱり黒い部分の存在はあります。
では、全ての人にこの黒い部分、すなわち罪が視えているかというと
そうではなくて
あるけど気付いてない人や、もうどうでも良くなった人も沢山おられます

何故、これを人が自己努力で取り除いては救いにならないのかといいますと

修行や行いによる愚行の上書きや諸々の善行では
必ずと言っていい程比較と差別
レベルや次元やマウントは絶える事が無いからです。

例えば、押し付けるんじゃないといっても
押し付けた人がどうやったら救われるかまでを考えていないのであれば
押し付けるんじゃないと言った方
それも立派な裁きになりますし。
これを書いてる僕も立派な裁き司になりますよね?
だって押し付けるんじゃないと言った方を裁いてるのですから。

ですから教えや律法のこれらは、ずっと、証し続けなければ存在出来ない物でもありますし、証とは権威のある服装や建造物も含めて意味する証ですから、このたとえの場合は自分は出来るという権威に立った物の言い草となります

それらは全て、出来るだけ人の形に似ていては証にならないので何よりもでかく、どれよりも怖く、それでいて柔和な建造物や諸々が必要となります。何故そうなるのかの意味はちゃんとあるんですね。証し続けなければその権威は存在出来ないからです。

ですが、黒い部分も在ってもいい、悪魔がそれを焼き付けたけど、それでも大丈夫と語りかけてくれるのはキリストであり、出来るだけ人に似て、いや完全に人の形をとられたのであります。権威も無ければ、でかくもない、怖くもないですから、この方を神と見抜ける方が極端にこの国では少ないのです。(お恥ずかしい持論ですが)

これに似たエピソードで映画の中の聖杯はどれか?と主人公が迷った時、キリストは大工だから、装飾品の杯ではなくて、木の器だと見抜いたシーンを思いだします。

僕はこのキリストに望みを持っています。この方は生きて働いておられ死の一分前にでもだれでも、どんな人でも救える力を持っておられるからです。ともうしましても万人救済論はこれはもう私が決めない事と言いますか、救われたくない人は救えないのは当たり前ですけど、希望が0になるとは僕はまだ感じてません。願望じゃなくてね。

そうして

否定じゃなくて何故の部分に焦点を当て、人の内面におけます神を必要とする認識の種類を言葉にしてみますと。

象徴としての神
すなわち、有り難いを残したい程に世が荒んだから

権威としての神
すなわち、その権威の保護下におれば世の権威は届かぬ哀があるから

救いとしての神
すなわち、事実に基づいた原理としての神

この様にも大別出来ますがそれはもう各々の必要に応じて信仰されてても大丈夫で私はそこは何も感じなくなっています。

コアと外殻の二十構造となりましたので。自分の自我判断ではなくてオートマチック自我判断はあっても、それはもういいとして、いちいちを神に委ねて最期を迎えたいです。これを成すには信仰と希望と愛が要るんですねぇ~聖書は完璧です😊。

言い換えましたら、言葉は悪いのですけど、もうね
らくちんに生きたいのです。(笑)
歳だし。といってまた、熱くなる時もあるよね。あ~あ😊。

(@^^)/じゃぁ。。今日も付き合ってくれてありがと。
みなさんに沢山いい事があります様に。