2020年05月16日

福音と宗教

神々しく寄せ付けない山の頂も
僅かな兆しをも見逃さない深淵も
ゆるりと腰おろす丘の上も
全て
神様がお創りになりました
感じ方は違っても対等として在ります。

人の意志も感性も賜物も同じく
神様がお創りになりました

ですが世にあっては
人は神様がお創りに成られた物・者を
思い思いに品評して生きる事を許されています。

それは神様が御自分の正義を変える事が出来ないからです
キリストを持って人の過ちを許すと宣言された以上
それを御計画の途中で変える事は神様の本質上ありえない事だからです

ですから、人は予め神様がお創りになられた通りとしてあらゆる事物を視る事がどれだけ素晴らしい事であるのかを知る事により、いよいよ人は神様に近づいて行く事が許されています。

このように
神様が人へ私に似てくれたらいいのに。
愛を持って人に伝えているのが聖書の福音でもあります。

私に似るようにと神様がおっしゃるので

人が決めた。自分がきめた 器
今どう思っていても
こういうのは気にしなくていいのです。

悪魔はゴチャゴチャと器の方。人格より能力の方
こちらをやっきに成って刺し示すのですが
ほんとに気にしなくていいのです

何故なら
悪魔は神様に似られるのが我慢出来ないのです
もし似るのなら、キリストではなくて悪魔を通してでないと我慢できないのです
もし似るのなら、人間の思考を通してでないと我慢できないのです。

貴方が神様に似るのを、ただそのままを、喜ぶのではなくて
貴方が私・私達の思考・思想で神様に似る事を喜んでいるのです

上が福音で
下が宗教です

どちらでもお好みで選べます
むしろ愛故に下を選ぶ時は上でもあります
ですから私は上下の違いに気付かなければなりませんでした

また、留まる事ができなくてかわいらしくて忘れっぽい、人への証の為に自分の器に手を加える必要は、どこにもなく、神様との交わりの中で自分の器の素晴らしい役割を尋ね歩む時に人は必ず開放へと導かれて行きます。

それが全くの自然で何の負荷も掛かりませんし、掛けません。

器は日ごと善き物を盛り付ける事に用いられますし
また善き物には器が無ければ目に麗しくなく食せません。

もしご自分が自分だけではなく神様が用いる器であると思うのでしたら
もし器に入る恵みの方をより求めて歩むのでしたら

小さな事に用いられる器と
大きな事に用いられる器と
それらは同じテーブルの上に在ると想えるのでしたら
品評する方が、あまりに狭く、おかしく、不自然でありますから
席に付いて頂いての後
器の恵みに預かる日常の方がより豊かである事は明白であります。

神様との共同作業は自然と恵み深くなるので御座います。😊