2020年03月02日

希望は傷がつかないよ

皆様、本日もお疲れ様で御座います。
屋根修理おじさんです。👷

さて、今日は何を書こうかなぁ。。
何も思いつかない訳ではありませんけど、ん~そうだな

そうだ、宗教とカルトについて書こう。
先ずは
宗教とカルトをごっちゃに表現しないでね。
皆だれでも信じる形有るものが宗教です。

スピリチュアル、エンタメ、音楽、人、家族、友人、仕事、ETC
まぁ、なんでも視野が狭くなって否定されたら憤慨するのが宗教の形です。

カルトはそれを強要し、尖りを増す物ががカルトです。
本当に大きな場所と視野から視るとそうだとおもうんですけど
どうでしょうか

現代の価値観によって
市民権を得ているか居ないかだけの違いしかないのですね。
ただ、それだけだと。

どの様な価値観でも過去から作られます。
未来から頂ける物は約束を伴った信仰だけです。

作るか?
頂けるか?

この様な違いも確かに僕の内面には御座います。

たとえば、視野が狭くなるという事は
救い・真理・正義・福音・み言葉・信仰・この様な武具も
一つだけでは成り立たなくて
それのみにより頼む事でもあります。

そうではなくて
これらがそもそも
存在出来る場所を感じる事が愛なのだと僕は想っています。

場所の忍耐を想う時に。僕は忍耐を感じれるという事でもありますね。
無論、我慢も惜しみません。

僕は、今と未来だけを信じて生きる人間ではありませんし、過去の凄惨や日の目をみれなかった方々、兄弟姉妹、全ての時間軸と存在が救われると信じて生きていますから、そこに僕の希望がありますので、それが宗教と呼ばれようが何と呼ばれようがそういうのは、もうほんとに意固地でも負け惜しみでもなんでもなくて大丈夫なんです。😊

これはね。希望は否定されても何も感じないのと同じで、否定されて感じるのは自我や感情の事なんですね。ですから、希望を否定されて、傷むならそれは希望じゃなくて願望かもしれません。

希望だって、愛だって
一つでは成り立たない。
時間軸だけでは成り立たない。
この様な事はもういやほど解っておりますので

その様な馳せ方に在りまして
私の備えは明日。我が娘が凶刃に倒れるかもしれない。もし、そうなった時に絶望しない様にする備えでもあります。

もちろん、そんな事が在っていいはずはありません。

それでもね
実際に在った方々は無数に居られるわけです。
(実感出来ない。実感し難いだけで、)
これからも決して零にはならない。

なぜなら人は過去に自分が負った凄惨から価値観を作り上げるからです。
未来の約束から頂いた信仰ではないから凶刃を手に持つ訳ですね。

そんな時の救いは一体誰が設けてくれるのでしょうか
その様な訳でして
僕は忘却だけは嫌だから。
これからも信仰者として全うしたい訳であります。😊

それは、そうと
宗教でも、カルトでもなんだっていいよ。
霊的レベルとか言うもんじゃない。
霊的段階はあっても、働きは同じで
我々十字架を信じる者が視ないといけないのは、その喜ばしい働きの事ではないでしょうか
芽が二葉を付けるも、大樹が実を鈴らせるのも
同じ御霊の働きではありませんか
その様に御進言させて頂きます。m(__)m

あ。これは僕が今日観た動画の個人的感想です。
突然で、すみません。

(⋈◍>◡<◍)。✧♡今日も読んでくれてありがとう。お疲れ様。そしてお休みなさい。zzz