赦しは僕の中には無いというお話

みなさまこんにちは。😊
突然ですが、身内殺しという言葉を御存知でしょうか?
マフィアでは御法度のといいますか、どこでも御法度の環境の事を言います。

何故?人ではなくて、環境かと申しますと、やってしまった人はほぼ、その自覚が無いからです。自覚の欠如は誰にだってありますから、やっぱり環境や場所を人より先に考えたいものであります。自覚って環境が整わないと中々厳しいですよね?僕の場合でしたら教会に行ってさすがにそこでは演歌は歌えません。(極端すぎますね)

さて、私はそれなりのと壮絶な身内殺し(殺人ではありません)の環境に居ましたのでそこから真理とはなんだろう。人ってなんだろう。罪ってなんだろう。救いとはなんだろう。と渡って来まして。最終的には赦しってなんだろう。今は。ココに居ます。

赦しってなんだろうかと考えてますと。やっぱり自分だけ救われる環境では赦しには繋がらないと思うのです。例えば僕が幾ら誰かや何かに評価を受けても、何かを多く蓄えたとしても、赦せないものは赦せないのです。ですから赦しは社会的成功の環境と背景には全く関係が無いなと思っています。全くですね。

では、どこにあるのか?と申しますと。
僕の場合は、自分の中には無くて、信仰の中に見出す事が出来ました。僕は聖書の福音を信じています。その福音とは神様は全ての人を救いたいという意志がある事を先ずは知る事から始まります。

(酒場で暴れている人をスマホで撮るのではなくてその方を救いたいと想う意志の事でありますね。)救われた方をスマホで撮るのは益でしょうか。この時、自分の意志は自分の内面の外側に居ます。内側に居る方がスマホで撮影するのです。御自分の理念は御自分の外側に在り添えますし無い方は内側。いいとかわるいとかじゃなくて、そんなことはもういちいちどうでもいい。意志の位置です。

さて、

僕に在った身内殺しの環境はそんなに大きく関係無くて、僕を痛めて苦しめた方々を神様は救いたいと願っておられるという事を知る事から始まるのですね。それは僕を愛しているからです。

続けます。

ほんとうにココを想っていますと。神様はすごいな。すごいな。なんでそうまでしてってやっぱり思いますし、信仰の初めの方は、同じ様な環境をその時共にしていた方と共に呪って、呪って、呪って、ですね。だけど僕らは違う。僕らは天の御国に入るからあなた方とは違う。

この様な事をの賜っては自分で自分を慰めていたものでした。神様の言葉を聴きながら神様の想いと逆の事をする事など日常茶飯事です。ちっとも解放感など無くてしんどいだけです。だって神様の意図しない方向に歩むのですから。。。それでもその様な関係は恵みの中に在りまして互いの為に淘汰されて行きました。

ここでの私達の間違いは自分達で自分達を慰めたという行為その物であります。これを止めないと永久に誰かや何かを赦す事ができなくなります。もうずっと捕らわれて果てしなくしんどいので御座います。自浄出来るのなら救いは要らないし、もう報いはその時々で受けているからですね。でもその報いは永久に同じ報いが必要です。永久に無限ループしてました。(だから画一的な思考の評価も多様的な思考の評価もしたくないのです)

そこから脱出する方法は、僕には一つしかなくて、身内殺しを行った方が救われる事しかありませんでした。その方が救われたのなら僕はもう悪口雑言を吐かなくていいからです。しんどい事が無くなるからなのですね。色々在った。本当に在ったけど。もうそれらは終わらせようと。誰がいいとか誰が悪いを終わらせようと求めて生きていますとこの場所に辿り着きました。

ですので、今はもうこの世に居ない方でありましても、身内殺しを行った方でありましても、陰府にあって福音を聴き、回心する機会があるという希望が残されている。これこそが僕が正気を保てる恵みの一つでもあります。

もっと砕いて申し上げますと、私ではなくてキリストがその方を回心に導いて下さるからです。呪いを持ったままの私では無くて愛そのものの方が導いてくださるのです。とてもそれはらくちんな事であります。何故なら僕は呪っても滅びろとは思った事が無いからですし、もし僕が滅びろと思ってもそれを庇う方の眼を僕は何時か視る事にもなるからです。

今、陰府に居られる方にも神様がまだ諦めないで全力で愛をお伝えしようとしていると考えるだけで僕は癒されるのです。僕にはもうそれは出来ない事でありますし出来たとしても過去のしこりが邪魔をしてちゃんとお伝え出来ない可能性の方が高いですしね。

聖書的なこの箇所(陰府と地獄)の解釈は人により繊細ですが、僕は人は死んで一端は陰府に行ってからその後に最後の審判を受けると信じています。陰府の場所にはこの世の惑わしが少なくて愛が何かを信じやすいのではないかとさえ思っています。それでも万人救済論は愛に反しますからそれは違うとも思っています。何故ならやっぱり愛より自分を信じる人が居ても当然で、その選択の自由は誰も犯せません。

ですから今は、人が死んで、幼子が殺されて、福音がその方々に届いていないのに、いきなり地獄に行くという教義を僕は受け付けません。それは私情を優先して信仰し始めた最初の頃の僕に戻る事を意味するからでもありますし、今を未だ生きる私が赦しを伴って歩む事が出来ないからですし、救いは人間だけの物ではありませんし、神様にも感情も意志もありますし、陰府がわざわざ在って地獄に投げ入れられる意味が無くなるからです。いきなり地獄なら最後の審判はもう執行されたという事にもなりますから全く辻褄が合わなくなるからですね。

なので赦せない方を赦せないは同時に僕の中には在りません。赦しは単体・単独で向かえばとてつもなく難題です。けど、ずっと赦そうとしてる存在を視れたのなら難題じゃなくなる。

僕はそんな風に感じます。

@^^)/~~~赦しは僕の中に無いというお話しでした。今日もありがとうございました。

この記事を書いた人

【鈴木 大輔・広子】

【鈴木 大輔・広子】

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【屋根工房きのした】親方の鈴木大輔です。

このホームページの記事は2011年から全て私達現場の職人達で綴って参りました。雨漏り修理といえど殆ど何も情報が無い時代から皆様から頂く御信頼と共に沢山の実例と気付きに支えられ【必ず直す】という個人的な意志を全うさせて頂きました。ご迷惑をお掛けした事もございましたが本当にありがとう御座いました。

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