2021年02月14日

愛と許しとは

愛と許しとは

みなさま。こんにちは。😊
今日は日曜日です。きょうから本腰を入れて今まで自分が書いてきたブログを整えております。丁度2400程あれやこれやと綴っておりますので、タイトルの抜けや、タグの付け直しや、忘れ、カテゴリーの区分けなどしてましたら・・・・・

なんだか息が詰まりそうになります。😊たどりつけるのだろうか・・w
フゥー。

そこで、讃美歌を聴いたり、聖書解釈を頂いていたりして、過ごしていますと、
今度は腰が痛くなったり、目が痛くなったりして・・・(笑)

10年前とは随分違うなぁと実感しています。あの時は燃えていましたから、寝なくても考えて考えて考え抜いていましたから。(たぶんずっと怒ってたんでしょうね。)

しかしどうでしょうか。あの時より今の方が幾分か優しく営ませて頂いております。これも私の努力だけではなくて神様のお導きだなと信じている次第です。

ちょうど食物は口だけで砕くのではなくて口に運んでくださる方とセットで味わえる事が出来るという解釈と同じでして、視界を頂いていても盲目でありましても愛の原理は変わる事は無いと信じます。見えないのならなおさらでありますのに、時にわたしは視えないと憤る事が多い全くの罪人で御座います。

書きながら今、愛の原理と言葉を頂きましたので愛の原理を私なりに綴らせていただこうと思います。今の私なりにですが、これはもうおそらく変わらないだろうなと思いつつ綴ります。

愛は
私の価値観の中に無い物で、愛は在って在る物で、すなわち愛とは出来なくても、出来ていても、その外側に在る物という事だと信じています。人が行うあらゆる価値判断の外側に在る物ですから、赦しも許しもここからやってくるのだと思います。

この言葉がこそ愛です。いやいやこの言葉こそ愛やろ。
↑価値観が創る愛。これも間違ってはいないのですが

僕は逆に

愛が言葉や価値観を創ったとしか考えられないのです。

うまく言えませんが、赦しを考えていた場合。価値観だけで赦す事は難しくて。といいますかほぼ無理で、じゃあ無理で出来ない赦せない人や事は愛の外なのかというと決してそうではない。キリストが十字架上ではっきりと(完了した)と宣言されたからですし、僕の内面の愛がそうはさせてくれないのです。だから苦しい局面も多々御座いました。(特に母との和解です。7年拗らせました(^^;))

これを結び付ける解釈。すなわち真理は
愛が言葉や価値観を造っていると解釈するしか辻褄が合わないのであります。

たとえば長年愛用させて頂いている下記聖書の言葉。

救いの兜
御言葉の剣
信仰の盾
正義の胸当て
真理の帯
福音の履物

望む人に備えられているこの様な武具に愛が表現されて無いのが証拠となります。何故無いのかは、愛がこれらの武具を創ってくれたからですね。

ですから、この武具ひとつひとつは各々違うその人に合った価値観や色使いで成っていますから武具から愛を創る事は出来ないんだと思います。

そうしますと、とことん。それが備えられていても、出来てもイイ。出来なくてもイイ。在ってもイイ。足りなくてもイイ。という可能性が潰れることがありませんから絶える事がありません。

愛はやはり神なのだと思います。

神を罪の在る内面に入れようとするから出来ないし、偏るし、苦しいのだとも思います。

ですから結論的にキリスト者は皆ヒツジでいいと確信致します。

その姿は



履物

胸当て

それぞれに得意とする分野と姿で、それぞれの足らずを補いつつも、
最後にキリスト(愛)
この7つで完成となります。😊

といいつつも、何にもなくてもキリストが在れば救われます。(笑)

救いの兜
御言葉の剣
信仰の盾
正義の胸当て
真理の帯
福音の履物

キリストはこれらの武具を全て備えておられた方でありましたが、それよりも何よりも何も持って居ない人を愛する事を選択されたからです。時にわたしは無い!と憤る事が多い全くの罪人で御座いますのにキリストの方からやって来てくださったのです。愛が人間のルーツであるなら素晴らしいのではないでしょうか。

人間のルーツの所で感銘し、本日も聖書と福音の動画から恵みを頂いておりました。
いやぁ~。何時もありがとう御座います。m(__)m

さぁ。神様が一番働いておられますぞ、続け続けとメェーメェーと歩みますぞ。w

愛は私の羊飼い
愛は私の羊飼い

(@^^)/~~~今回も読んでくだってありがとうございました。