2021年02月08日

子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない

『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』
『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』

この聖句の真意を考える時に必要な視点を書かせて頂こうと思います。この聖句の真意を考える時、私は価値観の外か内で解釈が変わると思っています。ですので価値観の内側に居る方の解釈を揶揄するものではありません。自分自身もその内側にずっと居たからであります。

キリストがイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていないという解釈は字の如く先ずはユダヤの方々の救いが始点となる事を言われている通りでそれ以上でも以下でもありません。キリストは神の御心を一番と成す事で人への愛が成就する事を誰よりも理解しておられる方だからです。

そのユダヤの方のパンを取って、子犬にやってはいけないと言われたのは蔑視で言われたのではないのです。順番と時間が関与している事を視なければなりませんし、そもそも、創世記にあるとおりに、犬はとても良かったと神がおっしゃている通りなのです。犬が畜生で、這う物で、劣っていて、好ましくない対象の比喩として使っているのはむしろ人間の方ですから

これを、悪霊に憑かれた子供を持つ御婦人に投げかけた時に御婦人の信仰をじっと視られていたのはいうまでもありません。

犬を蔑視する慣習があなた方にあるが、あなたはどうか?と尋ねられたのですね。間違ってもキリストが犬を蔑視していたわけではありませんし、この御婦人を蔑視していたわけではないのです。

※犬も御婦人も創造された方が何故蔑視する必要があるのですか?そもそも蔑視するくらいなら創造しないじゃないですか?

蔑視とは罪で罪からの救いがキリストなのではないのでしょうか。ですのでキリストが蔑視を行う様な不完全な方なら誰も赦してはもらえないですし、救われません。不完全な者が裁かれるのは当たり前だからです。

完全な者が完全に裁かれたから、これより後は不完全な者の罪は問わないと神が宣言されたのが福音です。
数字ではなくて質です。
私に在る福音はそうです。

どうか先生方にありましてはこの視点を御吟味していただきたいと切に願います。

その後

御婦人は子犬でも零れたパンを頂きますと答えました。この時、御婦人は子犬も神が創られた物であり、人間も神が創られた事を信じていましたので御自分を低くする事に何の抵抗も無かったのです。この視点によって御自分を高くする必要性を感じていないのが正解だと思います。

これはマムシの末と言われた時でありましても、犬どもとよばれようとも同じ事で御座います。御婦人に在る信仰、すなわち世界観ではなくて娘を助けたい一念、すなわち価値観で嘘をついていたら、当たり前の様に見破られ。御婦人の想いはまた別の形に変えられていたでしょう。

『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように』

この言葉を頂く事は無かったでしょう。
ですから、この御婦人の信仰でキリストが影響を受ける訳はないのです。ありえません。もしそうなら、そもそもこの御婦人はキリストの元に行かなくて良かったはずで御自分で解決出来るはずです。それにこの御婦人によってキリストが影響を受けて力を増すと旧約聖書に予言されていなければ辻褄がまるで合いません。予言されているからこその神様の公平性がまるで働かないのです。

私は、この箇所はこの様に解釈しています。
色んな方が、色んな解釈を持って前線に出ます。前線に出る苦しさは痛い程解りますから私に出来る事を書いておきたいと思いました。

小さな者になるには大きな場所に行かねばなりません。
大きな場所とは圧倒的な世界観で、そこでは態々大きくなる必要がないからです。
大きく見せる必要もないからです。

その様に祈らせてくださいませ。