2021年01月15日

主権者と主体者と世界の使い方

主権者と主体者と

主権者と主体者と世界の使い方
主権者と主体者と世界の使い方

皆様こんにちは。本日も来てくださってありがとうございます。😊

神共に居ましてというタイトルを使って書かせて頂いているこのコーナーですが今まで色々なタイトルに変更して来ました、正直もう覚えてない位であります。それくらい私は前に進む事が過去を赦す事。過去との距離をもう大急ぎで取りたい程の欲求があったのだろうと思います。そんな時ってございませんでしょうか。本日は主権者と主体者と世界の使い方を書かせて頂こうと思います。宜しくお願い致します。

さて、主権者たる神と主体者なる人の織りなすこの世界にありまして、今回の記事は主権者が何故神であり、見えない存在であり、地を這う生き物や空を舞う生き物の形で無いのかを先ずは御説明させて頂こうと思います。

始めに主体者の安全は主体者によって守られるのではないという真理があります。これは主体者同志の方向性が違う場合にどちらにでも神の恵みは等しく恵まれるからですね。もし片方の主体性だけが恵まれるとするならばそれは恵みとはいいません。聖書的にここを解くとするならばちょうどユダヤ人と異邦人の在り方の違いと同じで御座います。神様は両者共に必ず救います。

また、主権者は何故見えない存在なのでしょうか?この問いに対する解は主権者がどういった方なのかを御理解頂く事がその問いを解く糸口となります。誠に恐縮ではございますが、私に在っての主権者は聖書の神様であります。この神の目的は【全人類を救う事】【愛の神】この一点のみに他なりません。救いの逆は躓きであるとも捉えられますので神様は絶対に救いが完了するまでは人間を躓かせる事はなさらないのです。これが大前提として存在しております。

今昔問わない世に在りましては霊障が視えた。霊があそこにと。。この様な肉眼での確認事例の報告があり過ぎる中、またそれらを求める世の中ですので混沌と混乱の中で態々御自分の姿をみせられるとは常識的に考えても無理が御座います。

もう少し砕き御説明させて頂きますと【見分けが付く人と付かない人がいる】のなら、人が躓く可能性が零でないのなら、愛の神様はそんな選択は絶対に取られないからです。私でもしないでしょう。ですから口寄せやチャネリングで出て来る霊障は神でも人でも無い事は明らかであります。

また、地を這う獣の形や空を舞う獣の形やその他あらゆる被造物の形を主権者たる神が取らない理由も同じくして、人が躓かない為にその様な形を取らないのであります。

たとえば鳩を好きな方は鳩の形の神を受け入れやすいのですが、鳩が苦手な方は鳩の形をした神を受け入れ難くなります。そうしますとここにも躓きの可能性が残り、救いに預かる可能性が鳩が苦手な方をはじめ、その友、家族、諸々と尾ひれが付いて激減しますから、主権者たる神様は人が見たあらゆる被造物の形を取らないのは人への愛の形としては至極当然の選択であると理解出来ます。

ですから聖書を読んだ方なら御存知だと思うのですけど聖書の神様は動物の形を象った偶像に怒りをあらわにされるのですね。人を救う計画をもう創始からずっと何千年もお持ちになっておられるからであります。では逆に偶像を象って躓かす存在は誰なのかも明白で御座います。

しかしながら、主権者は主体者を愛する事が先立っているのです。愛こそあればの救いの御計画でありますから主体者の選択肢も選択も咎める事は今はなさりません。それこそ主権者であるのに主権者の主体性を愛故に置かれているのであります。この最も恵み深い象徴がキリストの十字架であります。【間違っても大丈夫・その贖罪はとっくに終わりました】

みなさまも愛する人の悩みに向き合う時に自分の主体性は先ず置いておいて愛する方の状況や傷の具合やこれからの対策やらを必死に模索される事と思います。自己主張などどうでもよくなりて、只々愛しているからなのだと信じます。

世界の使い方

それでは次に主体性を頂いた主権者が創られた世界の使い方ですが、私は特になんの意味もなくこの世界が出来ているとは到底思えないのです。頻繁に私はこのブログで内面の情景を実際にある世界に映し出して表現させて頂いた所以もこの思念に基づいているのだと思います。

【今の私の世界観は下記の通り】

家は心で価値観が装飾品や建具
魂がその家に住む住人

この様に捉え視えております。自分の内面を分けて捉えますと受けるダメージも軽く身軽に在れるからでどこにそれが関わっているのかを吟味出来るからで御座います。

家の形や色や大きさは実際の家と同じくしてその種類は無数にありますし、ともすれば集合住宅が好きな方もおられますし、家すら要らないという方も居られます。なので心の扉と馴染み深く表現出来るのなら家は心、窓は価値観。朝日に向かって開いてても夕日に向かって開いてても何も不思議な事ではありません。そこにはまた傷もあれば凹みもありますでしょうけど。それだけが人のすべてではないのです。喜びは飾られていて、悔しさは土を固くもさせます。

御自分の意志(魂)がこれからも御自分の家(心)を形作っていくのであるのなら、人の魂が人の家を作ってきたのなら何の評価が必要なのでしょうかと思います。ただ、どうしてここがこうで忍者屋敷みたいな作りなの?って聞いた方が面白いかもしれません。評価じゃなくてです。

辛い事があってもまた、家は作り変えれますし、作り足せます。ずっと引きこもっていてもいいし、人の心が狭くても広くてもいいのです。外の世界。つまり神様が創られた世界の一部で在る事に何も変わりがないのですから。

(@^^)/~~~今日もお付き合いくださってありがとう御座いました。それじゃ!またぁ~💛