本年もよろしくお願い致します。m(__)m

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真理真実を知りたければ
たとえ自分にとって不都合でも触れ難い物でも視なければならないし
触れなければなりません

もし、自分の内面にあるものが全て自分で生み出したものなら
その必要はありません

私は私や誰かではなく
真理真実を知りたい

そこには希望と愛と解放が在る事までは霊的な感覚で解っています。

こんな感じに触れていました(^^;)

※例えばですよ
私より若く、恵まれた生い立ちで、飢える事もなく裕福な中で育った教師がいるとします。私に在る不都合とはこれで(あなたが越えて来た物ははるかに私のそれよりも未だ低い)

だが、
真理真実を知りたければたとえ自分にとって不都合でも触れ難い物でも視なければならないし触れなければならないのです

これはクリスチャンの文化ですが、キリストを伝える方々は聖別といいます祈りを捧げてから語りに付きます。いわば、自分の事だけを語らない様に生きて働く御霊に共にして頂く事を切願する事が大前提となります。この真理が先の私の観念の目を抉り取っていただけるのであります。簡単に書きますが簡単ではないです。邪魔する霊も居るからですね。

もし、その召命が10代の子供に降りているのなら、御霊は肉に在りませんから人を救いに導く事しか考えていないので、私はその子を通して神の言葉を聴く事が出来るのです。肉の想いから出る言葉とはまた違います。(今は動画サイトで何時でも聴けて更なる恵み深い時代)ですから当初、心と魂は対極に位置していて隔たりがあると私の半生を手に取るとそれが映し出されておるのであります。(歳とったなぁ。)

しかしながら対極に位置していても其処にずっと固執して居ては救いや尊重に至る訳がないのです。出て行く意志。つまり真理真実を知りたければ、たとえ自分にとって不都合でも触れ難い物であっても視なければならないし触れなければならない。

自分を愛し人を愛するとはそういう一面も在るので御座います。キリストが十字架から降りれたのに降りなかった理由も真理真実に紐付いた愛以外にありません。

それは神という概念ではなくて、在る神を信じようとする貴方や私が在る神の前に立った時にとても自分では払い切れない罪の事を想ってしまっても、自責の十字架から直ぐに降りてもいい。堪えなくてもいい・・。と成り代わって下さった神の愛=キリストの愛を知る時にこそ、真理が輝きを増し希望への導線が明らかになるからであります。

神という概念なら逆に自責は生まれないのです。

これは真理です。

ただ例えそれが真理でありましても

世にありましては、耳障り善き言葉もあり、その逆もあり。どちらに致しましても極地にずっと居ては裁きと秤しか持てないのは自然なことでもあります。

(@^^)/~~~みなさま。あけましておめでとうございます。本年も、車窓から見える景色を見ながらジャムパンをポロポロ零しつつ泣かない様にがんばりますね。(笑)