ヨナの印(刺さると貫く)を考える

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ヨナがたった1本のひょうたんを惜しんだのだから、神が12万人以上の人間と無数の家畜がいるニネヴェを惜しまないことがあろうかと諭す。

悪い姦淫の時代には印を求めるという聖句を調べておりましたら突如上の解釈が我魂を貫いていきます。貫くと刺さるはちょっと違った感じがしてまして刺さるはむしろ本来の自分の中に在った物が呼び覚まされるという感覚に近くて、貫いてくれるとは完全に内面の風通しが良くなるという感覚に近く感じています。ですので神の言葉と人の言葉の刃先は用途が違うのだろうと思う次第で御座います

また
ペテロに向かい下がれサタンあなたは人を想い神を思っていないと叱責された時の言葉はまるで自分がキリストに叱責を受ける程に貫かれて行きます。よくキリスト教は宗教だと誤解を受けていますが、もう弁明や解説も他の方が沢山されているので少しだけ御説明させて頂きますと、(あなたがあなたであるように)キリストは救い主で誠の神であります。(信じる信じないは余り関係ないです)キリストの目的はキリスト教を敷く。または広める為に来たのではないのですが捻じ曲げられて今日に至ります。それでもキリストが世界に広まった原因は宗教ではなくて福音だからですね。神様からの善き知らせだからです。(ここが殆ど伝わってないのです)だけどここまでの誤解を招いたのはキリスト教系カルトが余りにも多いからかもしれません。ですから、もう一度ここでペテロが賜った恵みの言葉を振り返ります。(あなたは神を思わないで人を想っていませんか?)カルトや宗教の枠はこれに相当すると私は解釈しています。もちろん組織の中に在っては親子のシガラミその他自分事だけではない問題が多々御座いますから、とはいえのシーソーゲーム。御苦労が多い事をお察しいたします事を前提といたします。(ここは自分事の様にお察しする事が適います)

それでも、本当に人を愛するという事は人だけを想ってはだめなんです。(少し極端ですが)それだけでは自分の魂が枯渇して解放感も消え閉塞感のなかでわずかな笑顔しか出せない事も在るからなんですね。ですから本当に人を愛するとは人を想い過ぎずに神を思うという少し曲線を描いた生業を私はしています。その理由の第一原因は(自分なりに長い間愛と向き合いつつも)キリストの仲介が在って私の魂が護られて初めて最善の思考と働きに到るからです。しかし時には激情の中で失敗する事も御座いますが向きも構えも人だけを想って行わないので受けたダメージが小さく自分も他の人も責めずに次に切り替えて行けるのです。実は信仰の醍醐味はここに在るのだと私は思っています。なので僕は救われている。ずっと救われている感覚が途切れないので御座います。とはもうしましても(救いなど無い)個人的なご意見も最もでございますが、恵みの雨は一斉に降り注ぎ共に目を合わせて喜べるという情景が私共の悲願でも御座います。ですから、なおさら、その様な一時的な人の言葉に倒される訳にはならないのですね。感情よりも約束が伴う希望を明確に持っています。

その様な訳でございまして
宗教の為に信仰している人は少なくて(たぶん)人を愛する為に信仰している人が多いと思っています(実測出来ません)だから、その前身となる宗教という概念の取り扱いには尚、益々に慎重を期そうと思います。宗教から信仰者に成る人は沢山居られまして、それこそ何処にでも在る神の恵みと奇跡を観る機会も存在しています。(そんな時はあほみたいに喜ぶのです。やりましたなぁ。やりましたなぁ。と喜ぶのです(´;ω;`))

貴方の信仰が貴方を救ったのです(ルカ7.50)

最後になりますが、ヨナの印を勉強してましたので、私が(私共が)印や口寄せや占いを避ける理由を御説明致します。先程の一斉に降る恵みの雨とは対極に位置しており、例えばですよ、最初のとりかかりとして、僕の過去をあなたが言い当てたとしてもそれは良き悪き在っても過去であり僕の未来への希望には繋がりません。たとえば私の人生の全てを言い当てたとしてもです。これを前提に人を信用させて未来の貴方はこうしなさいと縛るからです。この様な物はおよそ愛の神から出た物であるとは思えません。当たり前ですが文化を避けているだけでその人がどうこうであるとは傲慢。ここにはいざなわれません。がんばります。兵士の訓練にも似ています。

恵みの雨は一斉に振りこそ共に喜べ
如何にある忍耐もこの量で堰を切る
内内からすべての溜まりが流れ
一斉に流れ出る感嘆。蟠る壁も崩れて流れた
震えるでしょう。咽ぶでしょう。哭きましょう。
そこで生まれて初めて膝をつき叫ぶでしょう。
主よ。

私はここに望みを掛け続けています。