2020年11月08日

人間性の向上と人間性の拡がり

人間性の向上と
人間性の拡がり
合わせ視ると
花火
一瞬で比較を忘れ
圧倒的に美しく綺麗
一人でも大勢でも

だけども僕は空にも手を伸ばしますずっと😊

具体的には(価値判断をしない。)今の僕は、この言葉に挑んでいます。
更に解り易く御説明しますと、(お前使えねぇな)この言葉に挑んでいます。
これね。言葉に出さない事は良識と多少計算が先立ちましたら誰でも出来ますので自慢されても困っちゃいます。💦

今回はそうではなくて思わない様にする闘いを自分に挑んでいる訳ですね。秒で切り替える術の事であります。ですから、それが出来る方のお役には立ちません。が、このままお引き取り下さいとはいいません。(笑)

さて、私にとっての糸口となる言葉は聖書の言葉の中に在りました。キリストが姦淫の罪を犯した女性に対して語った言葉です。
(もし、自分に罪がないのなら、この人に石を投げなさい)この様な教えであります。

言い換えればこの女性に人としての価値が無いと思うならこの人に石を投げなさいという教えであります。この言葉も
良識があれば皆出来ます。誰であっても、感情があるなら、そう難しい事ではありません。

だけどキリストが教えたかった事は情からくる赦しの事ではなくて(罪の事)です。ここを私は長年はき違えていました。姦淫の罪と傲慢の罪は同じ罪だという事をはき違えていたのです。この場に居た人達は姦淫を犯した罪を持つ女性とそれを見下して見ている傲慢の罪を持つ人々が居たという事です。

生活の為に姦淫を犯して営んでしまった女性は情の酌量があって赦せたとしても、(私は姦淫などしない、私は何でも知っている、私は私、私は私しか愛さない。あなたは未だ解っていない。)この様な傲慢の罪を浴びせられた時に感じ方の程度は人によってそれぞれですけど、この人身勝手だなぁ・・と感じたとしてもキリストはその人その物はもちろんですけど、その人の罪に対しても石を投げるなと仰ったのですね。

例えば聖書の概念というか世界観を誰かや何か(めちゃくちゃあり過ぎて眩暈しますけど)が流用して自分達の概念としていたとします。この時自分が懸命に手に取って来た物を何だか汚された様な気がするときもやっぱり僕には在ったのですね。そんな時、やっぱり僕は石を投げていたんです。いや、実際に石を投げたり、メールやコメントを送り付けたりはしませんよ。流石にそれはしませんけど、内面のわだかまりは確かにありました。ここにはっきりと自分の罪の存在を確認出来るのです。

これをどうにかしたくて、どうにかしたくて
ヒッシに祈り考えてました。💦ほんとにここはしんどい、キリスト者なら誰でも通る狭い門であります我慢と忍耐の連続であります。💦

その時にふと、罪なら姦淫も傲慢も同じだよ。何も変わらないよ。この様にキリストはそう僕に伝えてくれていたというお話であります。(僕にだけではなくて誰にでもそうですけど)僕はまたこの言葉に救われました。

そう考えてましたらまさに1000VS1の数式も同じで自分が1の立場に居ても石を投げない。自分が1000の立場に居ても石を投げない。数字に価値を置かない。価値判断をしないという事にも繋がります。僕はこれからもその様にココを頑張りますが、価値判断する方がいてももう、石を投げないのであります。

それは罪に対しての投石になり、強いては罪を背負われた救いの十字架に石が当たる事にもなり。罪からの救いを信じていないという事にも僕にとっては繋がってしまうからであります。m(__)m

だから手に持っちゃだめなんだと強く感じつつ、自分に語り掛ける事にも繋がりました。まるでドラえもんとのび太の様に魂と心の二人三脚はこれからも続きます。次に来る試練も必ず!、あ、やっぱり宜しくお願いしますにします。(笑)

(@^^)/~~~それではまた。今日もお疲れ様で御座いました。😊ありがとう。