ブドウ園の労働者
本日も思い付いた事を書いてみようと思います。
今日のお題はブドウ園の労働者
これを自分なりに捉え直してみようと思いました。
ブドウ園の労働者の例えとは簡単にいいますと
朝から晩まで働いた人の賃金と夕方1時間しか働かなかった人の賃金が同じで尚且つ夕方1時間しか働かなかった方が先に賃金を貰えるという聖書にある例えです。
朝から働いた人をユダヤ教の人や幼児洗礼を受けた人と捉える方もおられますし、夕方一時間をキリスト教や最期を迎えかけて受ける洗礼者と捉える方もおられます。
与えられる救いは(行いや実績)によらず神様が決める事であるという認識は皆さん同じで、僕もそうだと思います。
ですから完了したという言葉が在る以上、洗礼の有無でもなければ信仰の有無でも無いと信じています。
これを前提としまして
最近の僕は場所の重要性を感じてちょっとづつ浮かんでは書いていまして、この例えの捉え方もそれに準じて考えてみました。
ブドウ園にある労働
労働に対する対価を求めがちとなる弱い心は誰しも内包しているとは思います。
ブドウ園と言う場所
ですが、この場所に先ず招かれた事に対する感謝や感動が対価や賃金を上回るという事ではないのでしょうか
何方を見てもいいけれど、片方だけ存在してる訳じゃないんだよ。
神様はそんな事を伝えたかったのかもしれません。
また、ブドウ園を拡げて行く働き、各々の場所を拡げて行く働きは
労働ではなくて、喜びになるかもしれませんね。
神様はそんな事を伝えたかったのかもしれません。
愛を伝える執着を捨てれば、愛が拡がる自由を人は感じ取れて行く。だから神様は愛故に全てを捨てられたのかもしれません。執着を捨てるという事は本当に神様の御業だと思います。
この様にも続いて行くと思います。
なので僕も家屋を直すと言う名のブドウ園。これは僕が頂いた場所ですから、その様に拡げて行きたいと思いますし、この労働は執着を手に何か魅せる物をぶら下げてたら少しやり難く、喜べる枠が予め決められてしまいますので、それはそれで一応置いときまして、執着は過去の物でもありますから今の自分の背中を壁として充分機能させながら、未来の場所が拡がれば幾らでも執着を置いていい場所も増えていくのではないかと思います。
僕は神様ではなくて人間ですから、執着を捨てないで置く場所が増えれば寛容という二文字が見えて来る様な気がします。捨てるとどうしても無意識に自分以外にもそれを求めがちになりますし、若しくはその眼自体が新たな執着を生んでいると自分自身がそう感じるからですね。
(@^^)/~~~今日もありがとう。あらゆる営みお疲れ様でした。
※因みにブドウ狩りは武道です。めちゃきついですwww※