2020年11月10日

痛みも賜物

今日も屋根修理やってました。だんだん寒くなってきましたね。
どうぞ、御体に不都合が出ませんように。

そんな今日は、賜物について書いてみたいと思います。
賜物とは頂き物と同意ですので、人の手が選択した末に作り上げた価値観の事ではないです。

たとえば
赤ちゃんが笑った顔とか
漫画を読んでいる人が(笑)を堪えている所とか
運動会で懸命な姿とか
金木犀の香りとか
急に好きな人が手を繋いでくれた時とか
お土産買ってきたよぉ~って帰って来た時とか
吐く息は白いけど実はずっと内面は温かいとか
暗くて心細い時に在ってくれる灯りとか
んっ!? なにこれ!!美味しい!!!とか
意味不明は程美しい自然の織りなし方とか

その瞬間を彩る賜物って本当にそれぞれの年代に於きましても沢山備えられています。
これは選択しているわけではなくて、生まれつき備わっている感性に元付く贈り物だと僕は思っていますから、常ありがとう御座いますと感謝できる訳であります。もしこれを選んで勝ち得たとするのなら感謝の行先が不明になってしまいますので、そればかり追い求めてしまう事にも繋がってしまうと思います。だけど被造物を含めまして在った。在るよねという安心感を視る時に今自分は恵まれない時でも慌てないで恵まれている人を嬉しく見つめる事が適うと僕は思います。

聖書にはこう書いています
あなた方は世の光、地の塩です と。
光は小さくて、塩も小さいです 賜物もそんなに大きな事ではないかもしれません
けど実は
小さいからこそ隙間や傷口に触れる事無く届くのであります。

逆に尊大でも傲慢でも価値観でも真理でも摂理でもなんだっていいのですけど、大きいのは確かに触り易いのです、ですが小さくないと届かない場所もやっぱり在って、そこでうずくまってる方々も居る訳ですから、更に小さくなるべくこの様に書いている次第でもあります。役割の違いはここにもありますね。どちらがいいとかは状況で変わります。

これ以上に小さくは成れない。すなわち私が手垢まみれにした価値観を創りあげて振り回さない様に成して頂いた時(自分だけで成したじゃダメです、また踏ん反り返るか出来上がった価値観をぶん投げるだけだから)神様がどういった方なのかが解る様になるのだと僕は想っています。ですからね。沢山の恵みを無視してまでも作り上げたい価値観は今の僕には必要ありません。

しかしながら。このような文章も
あーしろ、こーしろ、とかじゃないんですよ。
お伝えしたい事は
価値観で神を知る事も語る事も無理ですよと、言っているだけなんです。
いや、まじでムリなんです。
神を語る方は皆、移り変わって行く価値観ではなくて移り変わらない信仰者なんです。
紆余曲折あっても
死ぬほど惨めな目に遭っても
信じて来た神を伝えようとされています。
僕なんかはもう、情けなくて恥ずかしいくらい
何度逃げたか解らない位です。
だけどね。ただいまって帰って言ったら皆温かいよぉ。。。
人間だけじゃないと感じます。

ですからその様な経緯も敬意も御座いますので
たとえそれがイビツな価値観の変形や固定観念であったとしても僕は壊したく無いんですね。
壊されそうになったからこそ
変形や固定観念になったと思うからです。

だから、痛い。
痛いんです。それが在る事が解るから。逃げた理由も解る。
解ると痛い事もあるんです。
痛くなければ解らない事だって沢山ある。

痛みも賜物ですよね。感謝申し上げます。m(__)m

(@^^)/~~~ 読んでくださってありがとう。皆様も僕も沢山恵まれます様に。。。