2020年09月27日

漏れる対処と根本療法

以前に長屋の家屋の雨漏りで悶絶した事がありました。
結果的には複合型の雨漏りという事で、当該家屋だけ直しても直らないという。経験や想像がまるで及ばない浸水経路を取ってくる地獄的な雨漏りでありました。それまでの自信なんか綺麗さっぱり吹っ飛んで、流石に寝れないまではいかないものの、その事象に獲り憑かれてしまいます。

獲り憑かれる要因の一つとして、責任感も同時に在るものの、自己への過信が悪く働いていたのではないか?この様に今にしてみればそう感じれます。過去自分が残してきた実績やら評価やらなにやらです。

今にしてみればという恵みを頂いての事でありますから、これが気付かない。視えないという事は私にはとても恐ろしい事であります。この折には、恵みの重要性が如何に重いかを身を持って証させて頂く事にも繋がりました。ほんのちょっとの閃きが助け手になるのです。閃きはどこからくるのでしょうかと何時も何時も手を伸ばしているのであります。

ここから本日は書き繋げて参ります。正解が無いという世の中は嫌なので、例え小さなパン種、からし種でもそれが正解ならとてつもなく大きな憩いになると信じています。

気付けないのは怖い。と書きました。
だけど、気付いてしまえばどうですか。
視えてしまえばどうでしょうか。
対策が練れて恐ろしくなくなります。

これは人にも同じことがいえるのではないでしょうかと。

人が恐ろしい。人間が恐ろしい。
これもそうです。
人間は
霊的な満たし(つまり愛に満たされる時)には愛のある言葉が浮かび使用する事になりますし、罪を優先して生かそうとする時には自我の意見や主張や比較が先立ちます。長屋と同じように罪からの浸水が当該家屋に繋がっている事と似ております。

人が汚らわしい。人間は汚い。
これもまた
こう感じる事が出来るのは、自分自身がその部分を持っているからではないでしょうか。もし無いのならそれを感じる事が出来ません。いわば、人を見ても逃げない無人島の鳥の様な立ち振る舞いとなるのが普通でありますが、そうはならないのが罪の恐ろしさなのです。聞いて下さい。
人の罪は見えても死に至るまで自分の罪は見させないのが罪の隠し持つ真の恐ろしさなのであります。

言い換えれば、私には罪が無いと放って凶弾する側に居る事自体がおかしいのですね。その場所自体がもう欺かれているのです。変じゃないですか?という事でもあります。例えば私を凶弾する人がすでに欺かれている事だってあるのです。その時私は自分の感情は視ていません。場所を視てる。せっせせっせとしてます。

もし人に罪が無いのならどうして人の罪を感じる事ができるのでしょうかという少々乱暴ですが既にキリストが私に投石のお話で教えてくださっています。(罪が無いと思う人からこの遊女に石を投げなさいと告げられたシーンです。)

本当に罪が無いと思う人は石を投げれません。といいますか無人島に居る鳥と同じくして投げる意味が解らないはずですし、自分にも罪があるのに石を投げる事は自分も石を投げられても文句は言えないよと導く愛と英知に満ちたキリストの御提案でありました。ココで皆石は投げないけど傷んだのです。全員傷んだ。愛故に。

(話は変わり元も子もあったもんじゃですけど。私はつい最近石を投げました。人に向けてはいませんが、漆喰工事の不備で石を投げました。1週間悩んだのです。)これもまた神様の判断にお任せする次第であります。自分だけこの様に書くのも苛立たしいとさえ感じてしまいますが、複合型であっても、数ある施工不備であっても一個位はそれと共に自滅してやろうと思ったからでした。息をする事と生きる事を考えてました。キリストに在りましては、とても並べさせて頂くには及びませんけど、いや、ちょっとてつもない片隅に並べてほしいですけど。いや、まてよみんな神の器なら一緒にならべるはず😊。

それから罪の働き故に、キリストが後に何人を助けようと、何千人を食べさせようと、どれだけ多くの人を憐れもうと、何の罪を持たないキリストが鞭打たれて殺されます。何故なら人間は罪人だからです。

(ここで勘違いしないで頂きたいのは聖人であっても罪人です。元々から聖い者でしたら聖い行いを求めないし証しません。)そうでは無く人間は全滅。元々聖い者は天使であってこの1/3を罪に貶めたのが悪魔であります。元々聖い者を貶める程の力が罪でありますから、罪を単なる闇の部分と軽く視ない方がいいと思います。

この様に罪に対する働きは人間以外でも働いていますが、その後パウロは復活されたキリストと合って、私こそ神様!罪人の頭です!!神様!私こそ罪人の頭であります!!と、雄たけびと共に悔い改めてその歩みを神様に委ねて歩む事になります。

(パウロはキリストの弟子ではありませんでしたが召命を受け使命に殉じた神の器です)またパウロ程、自力で神に近づこうとした人が当時居なかったという事ですし、そのパウロでさえも自力救済に喜びが無くむしろ虚しいと感じていました。パウロもまた罪人だったからです。

キリストは何としてでも悪魔に連れ去られた人を神様の元に返す役割を持っておられた神様でもあります。なんとしてでもです。どんな恥を受けようともです。パウロが証されましたように。実はキリストの望みはここでありますから、その為の愛の十字架という事だったのであります。

何人を助けようと、何千人をたべさせようと、どれだけ憐れもうと。これがキリストの目的ではないという事が解ります。私はこのキリストの愛より大きな愛を見た事がありません。私に対するどんな侮辱も私は赦すと仰られます。何故ならキリストには罪が無いから赦せるのです。愛その物だからです。

さて、もう一度当該家屋と雨漏りの侵入経路の情景に戻リます。ここで大切な事は神様が何を目的としているのかと同じくして、2事象しか無いという判断をしないという事なんです。でも私もそうだったように雨漏りを止めようとするときはこの2事象しか視えていません。もしくは当該家屋の不備しか視えていないという事なんですね。ですがこの2事象を取り巻く他の建造物や風向きや実際に雨が降る時間や角度などが大きく関わっているのです。これを今度は見落としがちになります。

いわゆる世界観。霊的な捉え方。全体を捉える事の出来る神様の本質。この様な視方が助け手となって頂けるのであります。(何故なら私の様に成りなさいと聖書の神様は導いて下さるからです。これは神様しか視ていないので傲慢でも何でもありません。むしろ大いに突き進むべき御国への歩みでもあります。)

神様しか視ないパウロが喜んで進まれたのは自力救済を証する比較対象者でも比較対象物でもなんであっても全て必要無くなったからです。それらの事は、罪は、ただ一度、キリストの十字架と復活で終わったと知らされたからです。

これが福音です。

終わったんだと信じる人は恵みに預かります。
いや、未だ終わっていないと欺くのが悪魔です。
罪からの刑罰が終わったと信じるのと、
自分でこれから責任を負うから、貴方も負ってねと捉えるのとでは
あなたの罪は何グラムで
私の罪はあなたより何グラムの差があってとか・・。

どちらが(人と自分)同時に優しいのでしょうか

私は福音を信じているからこそ、福音が織りなす全てを共に視ましょうと進んでいまして人を後ろに視ないでむしろ前か横に視ようとしています。後ろの事はもう終わったんです。同情景をみて互いに驚いて目を合わせたいんです。子供の頃一瞬だけ頂けた事を憶えています。

この様な心情を短くします。

すこし残ってますか。
まだありますか。
ちょっとだけ
ほんのちょっと離れて
眺めたら、違う物が在ったり

やっぱりしんどいよね
しんどい場所に集まってくれる
対処療法もええのかな
小さくても多く集まった
星みたい
ちょっと引いたら
視える根本が一気に変わる
根本療法になりますように

って想ってます。
(@^^)/~~~ それじゃ。今日もありがとう😊。