2020年07月30日

(自死供養について)

皆様こんにちは。😊
本日は早起きしましたので命の尊厳について私なりに一つ
書き遺しておこう。
そう思いました。

ひとそれぞれに、価値観や捉え方があるのは
命を維持するには、本当に大切ですね。

しかしながらその見え方は
命に至っての事なのかどうなのかは
また、別問題ですので
どの様な裁きを頂戴しようとも
どの様な人間であると判断されようとも

証するべき事は証せねばならないと切に思っています。
証したところでも、過度な期待はぜずに
伝わるかどうかは、また、別問題であります。

私は事、命に係わる捉え方の眼を行使する際には
キリスト教原理主義者でもあります。
キリスト教という言葉はどちらでもよいのですが便箋上。
ここは、まっこと、暈して営むのは止めようと決めました。
あまり良き響きではありませから、苦笑いしてごまかしてはおりましたが
くすぶる灯心は消せぬもので御座います。

だからこそ
命に至る他の道筋に
全霊を尽くす方にありましては、
誠の敬意を持って静かにする事も適います。
激動は静を呼ぶとも感じ取れます。

さて、
命の尊厳についてどうしてもわだかまる一つの事象が御座います。
この様な見え方をする人間もいるという事を知っていただけましたら幸いです。
論争ではなくて蔓延し切っている常識への疑問でもあります。

(自死供養について)

自死する程の苦しみを帯びた方の魂を供養の名の元に
自死した方と何の縁も人格的な交わりも
ましてや、自死その物を止められなかった方が
あなたのその文言で
もし、自死した本人が天国に行く事が出来るとするならば

それは供養とは言わず
呪いだとは思いませんか

また、
自死した方は天国に行きたいと生前、本当に思っていたのでしょうか
自死する程の絶望の中で天国への希望が本当に視えていたのでしょうか?

もし天国に行きたいと思っていた場合でも
もうその方は
あなたにせよ、その文言にせよ、その権威にせよ
どちらにせよ、なんにせよ
未来永劫永遠に人格的自由を手にする事は無くなって
それらに頭が上がらなくなるとは思いませんか?
何故なら
条件付きで自死する程に希望した天国に行けたのですから

自死する程の渇望を
それによって埋めたという事は
そういう事だと私は思うのです。

もし、私が自死した立場の魂だとしましたら
何を言っているのか解らない文言を
いや、文言の内容を知っていたのなら
事象の前提として、権威の前提として
自死を回避出来る程の文言を

個人的な権威に乗った姿勢で延々と聞かされても
ただ、ただ、苛立たしいだけだと思います。
その苛立たしさは次に何が生まれてくるとおもいますでしょうか?

この様な事は
命に向き合う時の一つの疑問でもありますから
どうか感情ではなくて
霊性を持って捉えて考えて頂きたいと思っています。

原理主義者と自己崇拝主義者はまたその歩み方は違います。
ただ、改める事あらば双方共に、命故に、
改めなければならないと思います。
私も有るのなら見いだせたのなら
いつでも改めて参る覚悟は御座います。
自死した方の魂には何が必要かの難問から離れない様にしたいですね。

それ故に
命と向き合う時の主語は
私がとか、先生がでは・・
どうしてもダメだと私はそう捉えています😊。