2020年07月03日

愛の産物

今日もその様な感じで愛について考えてました。
その様なと言われてもですよね😊

もう。。ずぅ~っと考えてるので最早脳の一部なんじゃなないのか。癒着しちゃって変になってるんじゃないのかというくらいにその様な。

愛の様とはこの様な感じでして

愛情は人の持つ愛で
愛は人が持てない場所のことかなぁ~・・とか

愛情は別れるから
愛が結びつけるのかなぁ~・・・とか

神は愛なり。。。とかね。

例えばこれが、愛だよという発信を見させていただいたら
なるほど、それも愛やなぁ~とか
それは、個人的に愛なんかなぁ~とか・・ね

あんたに!愛はあるのかえ!!は
これは人によって好み変わるだろうなぁ・・・とか

もうずぅ~っとです。

ずぅ~っとWWW

( ゚Д゚)・・おなか痛くなってきたからトイレ行って続き書こう。

。。。

。。

( ゚Д゚)ハァ? 只今戻りました。手洗い忘れた。

。。

( ゚Д゚)? まぁ・・そんなん。
。。。

。。

\( ゚Д゚)/ さてと

今日はね。毎度毎度で申し訳ないのですけど

(神は愛なり)

これをお伝えしたいといいますか。ここからの考察をお届けしたいと思います。

まず、聖書には明確に私はアルファでありオメガである。。

この様に神様ご自身が証されています。

よくわかりませんよね。
ですがそう仰っておられます。

あるふぁ~ふぁじゃないですよ
それは脳がリラックスする奴であってると思う。

日本語にすると
私は初めであり終わりでもあるという事でもあります。
これならちょっと分りやすいです。

それから
聖書ではこうも証されています。

(私は在って在るものである。)

文章の途中ですが

※命の重さにも直結しますので証と表現の違い等は各々で感じてくだいませ。証たという言葉は信じようが信じまいが人に明らかにしたという同意語ですのでここに多くの方の命が捧げられた殉教という側面が御座います。人が殉じるという事は想像による表現だけではなくて確信と召命が有ったという事でありますから、自分はどうあれそこだけは汚さない様にお願いしたく存じますが、尚も真理は命の為に働かねばなりません。※

何か急にスミマセン。大丈夫です。(笑)
ほんでね😊。

今日は(在ってあるもの)この部分を自分なりに結び付けたいと思います。

ちょっとした理由がありまして

昨日娘とひともんちゃく起こしたからですね。
毎度毎度スミマセン(笑)
モンチャクはあれです、あれ、
立方体の見え方は立ち位置で違うやん。
コレだけなんですけど面白かったです。

なんといいますか
もめても、もめなくても
かんがえさせられるって

ええよね!!どんどん互いに取り入れていこう。

( ゚Д゚) そんでね証ですね

神は愛なり=在って在るもの

という公式が成り立ちますので

在ってあるもの を 態々(これ大事)

手に取って、比べたり 測ったり、見比べたり あなたはしてるんじゃないの?
と・・・
今日ふっと。頂きましたもんですから。

そして あって あるもの を あろうことか!!
食ってしまったんじゃないの?

それをしたら
あなたは死ぬ(霊的にも)といわれてるのに

あ、これは禁断の実と同じ構図じゃないですかと、気が付きましたので、しこたま悔い改めてました。私がです。う~んってね。

(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)💦

そうして、その部分は消しはしませんけど

(神の愛は人間の愛を遥かに凌駕する)

数日前の自分のこの文章は少し違うなぁ~と
深く改めた次第でもあります
(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)💦💦💦

(*-ω-)。。。

( ゚д゚)ハッ あ、でもあまりにひでぇ~っと思う文章は消した事ありますよ。(笑)
だって、酷いと思う事はいい事でもあるしね。

さて、

在ってあるものを愛とするのなら

触れずにね色々自分側で操作しないでおこうと・もう・心底・そう想ったわけです。アダムとエバがやってしまった過ちを今でもしない様にする方向を考えるのであります。

ここで登場していただくのは
愛の内に留まりなさいという
聖書の御言葉
先ずは留まる以上の事を神様は求めていないという解釈が出来ます。

そうしますと
留まる時は何もありませんが、留まって生まれた結果が愛の産物という事に繋がります。

ですから産物は正確には愛ではないという事だとおもうのであります。
産物が愛ならまた手に持ってしまいますし、副産物はもう手に持つのも嫌になってしまうかもしれません。

それが、やっぱりね。人によってはしんどいを生みますし。
それ・・。私、僕、生めないってやっぱしあるのですね。。。

そうしますと
今回の私のしでかしたことは
(神の愛は人間の愛を遥かに凌駕する)←コレですねこんな産物

また、別の角度から
産物が愛になり得るのなら寛容も愛という事になってしまいます。

愛が寛容なのであって、寛容が愛ではないのです。

寛容でなければ愛ではないのか?といいますと
そんな事では決してないからですね。

寛容な方でも不寛容な方でも
寛容な時でも不寛容な時でも
誰であっても
愛の内に留まることが出来るからですね。

たとえば

教会という場所は
元々そういう方々の居場所でもありましたし
出来る人だけが居ていい場所ではなくて
そもそも
出来るって出て来るだけで充分でしょ的な所でもあります

あ、私それ出来ないんです・・・。💦←コレ
出て来てるやん。出来てるやん。みたいな。

( ゚д゚)ハッ!あ””、~!!!また、産物ぐぅぁ~~WWW

(*´Д`) もし、許してくれたり、許せたら、それも愛の産物という事にもなりますね。
命の木で言うと実も大事だけども・・。
許しの実が出来るまで時間かかる時もあるし。

(*´Д`)ハァハァ・・・まぁ・・
そんな風に教えて頂いておりました。

では結論ですが

愛は在ってあるものでありましたら

私には愛が無いと・・。しんどくならなくていいし
あなたには愛が無いと・・。しんどくならなくていい

もっと簡単に表現しますと
ストーブですね。
なんでもいい。
扇風機でも
クーラーでも。
それが効いている場所が愛なのだと
僕は思うのでありました。

手に持ったり、触らないでいい感じで、一緒に風に当たればいいので素敵に
ちょっといややなと思うてもなんかちょっと大丈夫的に
御一緒させて頂きましたら、私も歳なので急に聞かれても無い自分の事を語り出します的に。

いいし、いいし、で
ますますでニコニコでウキウキで

愛とも良い距離感がいいで素敵に。

いいで素敵に😊。

(@^^)/それじゃ!! また。ありがとう。