2020年06月25日

砂漠裁く 飢え植え

集客の為なら信仰的な事は書かないほうがいいとも考えられますし、助け手の為なら信仰的な事も書いてもいいとも思う今日この頃であります。最終的にはレンタル孫の手が助け手の手ならなおいいなと思い百本位作れたらいいなとも思います。それでも肉質ある助け手のほうで掻いて下さいというご要望もありましたらその時は鼻の下が伸びているのを確認して頂いて勇みて明らかな下ごしらえや下心すらも目視していただいてから掻きとうございます。お互いの鼻の下が伸びている場合どうするればいいのか?その様なご質問も御座いますでしょう。その場合はもう痒い所が無いのだと思います。その様な感じで今日も記し残し。

私は今価値や定義付けが余り関係ない場所で行きついて息付こうとしています。いわば全てを受け入れられている場所が愛ですから愛に価値付けや定義付けを成すという事は大自然に着物を着せる様な微笑ましい違和感を覚えてしまいます。さながら初めて恥を知り互いの弱き箇所を恥部として隠したアダムとエバが付けた葉にも似ています。この葉が思想信条と成り代わっている部分でもあります事を憶え、何故に先ず思想信条が今でもその存在が必要なのかを理解する糸口にもなりました。神は実に恵み深く思慮深く罪を犯しても隠せる葉を罪を犯す前に予め用意されいていたという事を三位一体の一格。御霊により頼み知る事となります。

この様な事は私の一存ではなくて能力でもなくて、ただただ神との交わりの中で求め、求め、求め続ける事が好きですから頂ける一つの恵みでもあります。ですから私が傲慢に捕らわれる事無き永遠の救いと恵みはまさにここにある訳であります。傲慢はある。傲慢に捕まる。これは結果ですから愛すべき場所はその結果を手に取る前の全てという事になります。傲慢が実を結んだ結果からは善き物がもうそれ以上は生まれない。それが結果でもありますから可能性を愛するとするのなら結果の前に一端引く心情も必然となってくるのでしょう。木は何度でも実る物でもありますからこれを置いても善いかもしれませんし何を置いても自由であります。

では何故御霊の働きが必要なのでしょうか。私の事は私が知り、貴方の事は貴方が知るように神の事は神にしか知りえないからです。先ずはこの大前提でつまずかない様にしたいものであります。ですから人が神を知ろうと求める時も人が人を知ろうと求める時もまずは聞く事から始まります。聞かずして感性や経験をここで働かす事があらゆる弊害を招く危険性が高まるという事であります。聞いてからの想像と聞かずしての想像とはまるでその質や正確性や丸みが違う物が出来てしまうからですね。

人が神に聞こうとするときの言葉を神は食べやすい物から食べにくい物まであらゆる年齢層に合わせて用意されました。今は食べ難くても後には。また、今は食べやすく先に歩みやすくなる様にと。この様な神の言葉の愛に触れる時に私に違和感を持たれていても忍耐強く待って頂いた事。我慢強く伝えようとされていた事を本当に神が人を私を愛されている事を知る事となり想い巡らせるのであります。ですから違和感を藪睨んでは私が私を睨みつけている事と同じという事にもなりますので、ここにあり信仰の重要性は増すばかりであります。

私は私では私だけでは愛する人を救えない事を痛感して大切に胸にしまっています。ですからそうですね。諦めても捨てなくてもいいと思うのですね。抱きしめて大切に締まっておけばいいと思います。これは隅に追いやっておこうとしても実はその部分は割と真ん中である事もあると思うのです。今疎外されて、辱めを受けて、出来ない事だらけで、隅に逃げて行った其処がその場所が世界の中心だった。なんてことは大いにある事だと私は思います。世界の中心はどこからでも作れるように恵まれているからでもあります。

この様に砂漠で生きのこる方法に疲れましたら。いやここはもう本当に私は砂漠で生き残れてもしんどいだけですから。少しでも砂漠が緑化を遂げてくれたらいいなと祈っておる次第です。緑化した場所での憩いは個人差を視なくていいからです。もっと見える物で溢れていますし砂漠でもなく裁くでもない場所だからですね。今日も何かをせっせと。。飢え減らす為に植える方に敬意と感謝を贈りたいと思います。ありがとう御座います。私もせっせと。。。人が植え神が育てて下さいますこの両翼で😊。