2020年04月30日

安心感

安心感について考えていました。

何年か前に娘達に教えて頂いたお話があります。
とても綺麗な菜の花を娘達が見て香りを嗅いだところ、ヨダレ臭くて大笑いした事があったそうです。臭いのなんのってそりゃ~。😊また最近TVで初めて知ったドングリキツツキはひたすらに樹木に穴を開けてドングリをねじ込んでいるのですが、何故そんな事をひたすらに続けるのか不思議でならないので必死で考えておりました。ヨダレ臭い花もドングリキツツキもずっと変わらないのはなぜかという事を。

これは神様が自然を通して人間に与える安心感なのだと思われます。普遍的に変わらない物は時につまらなく感じてしまうかもしれませんが、どの様な形の愛でも馴れてしまえば、知ってしまえば、つまらなく感じてしまうかもしれませんが、それが普遍的な安心感という事なのでしょう。

あってあたりまえ、つまらない、この様な背景と安心感は同時共在しているという事でありますね。ですので神格は絶対に変わらないという安心感と畏敬も同時に示していますので、この神が人に与えている安心感や畏怖すらも変えようとする存在も人の意識や無意識は問わずして当然の様に存在している訳であります。神格の安心感を頂くなら畏敬も頂かないと真理を受け入れた事にはなりませんけど、このどちらかを迷わせたら救いの一端を崩す事が出来るからでもあるのでしょう。

それでもここは感情で勝てる様な領域ではありません。感情は基本一人ですから頭数で負けてしまいますし、相手は感情を使ってないからなおさらであります。

それとは別ですけど、偶に道路脇からみる森林を大伐採する光景を見た時とかはどうでしょうか。これから道路が出来て街が出来る。そんな未来がやってくるのは解ってはいても私はなぜかその光景に安心感ではなくて不安感をずっと覚えてしまいます。もういいんじゃないのかな。?もうやめませんか。?という漠然とした不安です。これは先の安心感とは逆に人の介入が観て取れるからなのでしょうね。

また人が介入した時の不安感を覚えるとき

・自分との関係性
・人との関係性
・神様との関係性

これらが軸としてあっても、もしかすると漠然と不安を抱えている原因は神様との関係性が無い、或いは弱まっている時なのかもしれません。私にはこの3つの関係性が有用で自分や人との関係性を活かす為にも神様との関係性の回復がとても重要であると考えております。

例えば、上から目線は容易に降る事が出来ませんが、確かに存在しています。しかし上からの目線は目的地目指してへりくだれたりもします。神様との関係性がある時は目的すら変わってしまうのですね。自分がへりくだって愛が優先された時の満たしはとても開放的ではありますが、何時もそうなる訳では無いので私に信仰の必要性を明確にしてくれています。その様な私の内面はとても合理的であります。

また、神様との関係性にありましては世的には当たり前とされている場合がある下記の不等号。当たり前といいますか多くの悲劇をこれも意識無意識問わず生む不等号と片目。これらははなんの役にも立ちません。

能力>人格 これは必要ありません。
努力>人格 これも必要ありません。
成果>人格 これも必要ありません。

むしろこれらは全て人格の満たしに不等号が向いていなければ意味を成してくれませんがほぼ逆を向かされている時があるのも事実であります。

真に願わくば、救いの福音と宗教や哲学は全くの別物として捉えて頂きたい所であります。宗教や哲学は足して行く事や変えて行く事が適い、また事実その様に広まって来ておりますが、救いの福音は足す事も引く事も約束ですから許されておりません。否定や肯定云々ではなくて元々役割がちがうのです。

また、神様との関係性がある時、神格と人格の交わりがある時、より深く人は人の人格を第一優先順位として扱う事が出来ると思っています。何故なら聖書の神様は愛であり、人格を神格を持ったまま初めて対等に接して下さった唯一の神様でもあるからです。愛とは何かを人の意識に伝えた第一原因者であります。

その様な訳で、愛は人の能力や努力や成果でブレる事はありませんし、ブレるならそれは自己しか愛さない自己愛。それは最早、愛ではなくて罪です。キリスト者は能力や努力や成果を自分で独占する事は罪だと認識しているからでもあり、全てを神様を交えての全体として扱っているからでもあり、その前提として神格と人格の関係性はキリストによって回復していると信じてもいますし、実際そう営んでおりますが。。

はい。がですね。

前提がそうだからそうなる訳ではないのです。
私も愛の内に在り続ける事は甚だ困難を見出す時も御座いますが、見出し、挑み、負け、またチャレンジする日常に変わりはなく、既に至ったとは・・いや、そういうのはもうどうでも良くて、至った所でそれもまた同じく傲慢のカビて湿った匂いが宜しくないので、神様の愛の内であるのなら何処にいてもいいのではないかと思われます。

そうしますと
自分が乾く箇所の自分探しの旅は、自分の内面にはないのかもしれません。
自分の存在を創ってくださった方を切に望む時に平安は神様の方からやって来てくれると私は信じています。これは失ってしまっている安心感と似ています。何処に居てもいいという安心感。

この救いはとこしえに失われる事はありません。自己努力だけで視れる世界は小さいのですが、小さい子の様に連れて行って貰い視れる世界のなんと大きな事でしょう!!

ずっと賛美しかしたくないと言わしめた世界とはどんな世界なのだろう!?
今ある私の思考に尋ねてみても
ずっと賛美だけなんかつまらない、飽きるはずなのに 飽きない世界とはいったい!!どんな世界!!どんな涙を持ってしてでも消せない希望の灯とは一体何?!!

とても見てみたくて。あ~楽しみ。全てが緩み行くのを感じています。😊