2020年03月28日

砂漠に撒かれた種

本日は愛の場所について考えていました。
そうですね
心魂繋ぐは愛であると至るにやはり試練の火はやってきます。
愛は安住の地ではなくて更なる練磨がやってくるのもまた私が愛されている証なのでしょうと、一人悶絶する一日で御座いました。

今日はホトホト心労が絶えませんでした。逃げたくて逃げたくてどうしようもない程でありましたけど、そこからの回帰は無い物かと日ごろの準備不足を恥じながら模索する一日でもありました。

例えるなら
貴方を絶対に見捨てませんと豪語したペテロ先生が舌先の乾かぬ内に3度も貴方を知らないと言った心境を感じ取る事にも繋がる試みでもありました。

もし、この言葉を知らなければ私はきっとこの試練の業火に負けていたと思います。ですのでペテロ先生の行いには感謝以外の何物でも御座いません。その後の先生の行いには敬意以外混じる余地がない事も覚えて賛美致します。

信仰者とは、口先だけで説くものではありません。誰でも同じように受ける試練にみことばを持って立ち向かうだけで、何の差異もそこにあってはいけないのです。

愛の場所とは
決して潤沢な水辺に咲く花を愛でる事だけではなくて、自分の想いや実力が種となり、絶望に近い砂漠に撒かれることだってあると思うのです。

易くに咲く水辺はもちろん大切では御座いますが、砂漠に撒かれた種の芽吹きを待つ忍耐も同時に愛により頼むとするならば私には必要な試みでも御座います。沃土や荒野、また砂漠ありきの場所であるから愛なのです。

そうしますと
幾度となく、私は恐怖で見捨てた種を持っています。これは失敗というよりも喪失であります。また、私は恐怖で見捨てられた種を持っています。これは失敗というよりも痛恨でも御座います。

私が愛をどう視るかに意識が向かう時、やはり恐れが私を覆います。しかしながら、愛が私をどう視てくれたかに意識が向かう時、砂漠の種はわずかながらの躍動を知らしめて頂けます。愛の視野と私の視野は全くの別物で有る事を感じ取れる事が出来ます。

とはいえ
ギリギリの渦中にある私の励ましをお届け出来るかどうかは測りかねますが

どうか自分の想いが砂漠に撒かれた試練にある兄弟姉妹の方々に在りましては、そこで芽吹いた灯を焦がれて待ち、期待しようではありませんか

きっとその灯は自分だけの眼に映らず、より多くの方々が感じ視る灯になると、おおいに期待しようではありませんか

試練の業火で精錬された金になるという約束の元に

それでも、何度でも、何度でも、愛に至るまで愛は私はもとより、だれかを見捨てたり、育む事を止めようとはしませんから。一度や二度、いや何度逃げても大丈夫です。次が必ず何度でも訪れて来て下さいます。

今日もありがとう。 今日のお風呂は長めに入って休もうと思います。💑
深海2000の耐久をも持ちながら、水面でイルカの鼻を触りたい。😊