2020年03月22日

終末論をどう感じるか

いよいよ春の兆しがすぐそこに感じれる季節の到来です。
現場の近くの公園でたった一つ桜が咲いているというご報告を受けて早速カメラに収めてみました。

希望
希望

不思議と、一つしか咲いてない桜を見てますと感じた事があり記しておこうと思いました。
この咲き方をどの様に捉えるかという所でありますね。これを終末論に置き換えてみますと

全ての花は散るから、この一輪に集おう。そうすれば貴方は救われる
全ての花はこれから咲き乱れるから、貴方は喜んでそれに備えませんか?

終末論でもこの様な二つの感性が織り交じって伝えられていると思います。
私が感じているのは後者となります。

意外と昔僕が通っていた、教会は品行方正な方の集いであると固定観念を持たれている方も多いと思うのですがそれだけの側面ではないのですね。

聖書的には
花婿が迎えに来るから花嫁は何時花婿が来てもいい様に準備しなさい。

この言葉に希望を感じておられる方が大勢いますので品行方正ではなくて花婿を迎える為に一生懸命お化粧したり、掃除をしたり、身ぎれいにしたりを行いつつ、みなさん喜んで待ち望んでいる訳で御座います。

品行方正な私達ってどうでしょう?あなたもそうしないと救われないよ?もっとこうしないと、もっとこうでないと・・。

これではないのです。

順番が違っていて最初に希望を頂いての行動であり、行動あっての希望ではないという事で御座います。また、絶望を利用しての希望への誘いではありません。

言い換えますと

遠足前にお鼻を上布団で隠し、目は天井を見つめる。
しおりは詰めた。お菓子も詰めた。
喜びの中で明日を待つけど、中々寝付けない。
あ、そうだテルテル坊主をつけ忘れてる。
跳び起きて、吊るして、また布団の中へ・・
願わくば好きなあの子の隣に座りたい・・・。

この様なかつて体験させて頂いた感覚と同じで、終末の神様はたとえ遠足代を払えなくても、お菓子を整え切れなかったとしても、必ず迎えに来て下さると約束しておられます。誰が、どんな境遇であったかは問題とはしません。

私もそうですね。どれだけ傷があったとしても、今までそれ以上にどれだけ神様に護られて来たかにこそ注視しつつ、感謝を捧げて来るべき日に備え、喜んで自分の内面の掃除などに励み、また、小走りでお菓子を買いに参りたいと思う日曜日で御座いました。

子供の頃のお菓子って買う喜びと食べる喜びと見る喜びの王者でしたけど、それ以上の喜びが一日一日近づいているのですね。

造り変える
造り変える

私共は創り変える事は出来ませんが
造り変える事は出来ます。

本日もありがとう御座いました。💑