2020年02月15日

愛が無ければやかましいドラの音。

愛が無ければやかましいドラの音。
今日はこちらの言葉を考えていました。

確かにそうだとは思うけど。
この聖句はどっちに語られているのかな?と考えてました。

愛無く奏でる方なのでしょうか?
愛無く聞いている方なのでしょうか?

どっちもでしょうね。と紐解きを頂いて拡げてます。

例えば
梅が咲いて奏でますけど

一期一会 (2)
一期一会

幹・空・花があって梅と感じる事ができますが
梅干しだけを見たら
実際これが浮かぶまで戻ってこれるのはちょっと難しいみたいな感じです。

同じ様に性同一性障害という言葉は余り好きにはなれません。
何故障害なのかな?と
それを告知する事にどれだけの勇気が必要でどれだけの支えが必要だったのだろうかと馳せてはみても、支え無くした時の喪失感を埋める事はホントに難しいです。

愛が無ければやかましいドラの音。
もし、やかましいのなら

独奏で奏でてもいいし
合奏で奏でてもいいですし
奏でなくてもそれはそれでいいですね

やかましいドラの音になる原因はなんだろうかと自分に問いますと、僕の場合はやっぱり纏わり付く固定観念や価値観なのかな。それも良き働きを起こす場合も多く在るのも事実でしたけど、僕にとっての其処は通る場所で通過する場所であったので、何時までも居たい場所ではきっと無いのでしょうね。

そればかりじゃどれだけ奏でても自分に届かなくて、どれだけ奏でても途切れてしまう側面も在ったからだと思います。

本来の自分はもう少しだけ、ほんのすれ違いの先で泣いている様で
そこに戻ってあげたい。もしくは連れ戻してあげたい。
どっちでもいいのでそうしてあげたいと思います。

そういう事で
上手い下手はあっても

個々の賜物を奏でれたらいいなと思います。
自分その物を奏でられたらいいですね。
鳥とかむちゃくちゃで幼子の笑い声も統制は無いけど何時も何時までもそうしてる様に
きっとそれが個々に残っていく目には見えない作品となるのでしょう

例えばそれは
人の内面を内外に奏でる一つの楽器の様な気もしていて
自分そのものに触れたり、人そのものに触れさせたりさせて頂きますと
ますます。面白いなと感じています。
似ていても、似ていなくてもどっちでも僕にとっては面白い音。

弾くも楽し、聞くも楽し
愛の内に在ればこそ。
愛に感謝致します。

屋根工房きのした 鈴木大輔
ええ感じの写真を多用する予感wwwというか既に・・w未だこういうのも残ってるよ

という事で、今日も自分のホームページを愛の場所にセッセと連れ戻しています。屋根修理おじさんという言葉もその一環でもあります。振り返って読んでますと・・あ~・・お前何言ってんだそこは全然・・・じゃ無い・・ヴぅおあ~ ゲロゲロ。という記事は・・どうしよっかなぁと思いながらww

( ゚Д゚)・・・つまりそれは?ブログというのは有難いものだっだのですね。自分がそうであったから人様の可能性も信じれる。寄り添えなくてもちょっとだけでも本来持つその人そのものを感じて信じれるかもしれません。むしろココを感じれる様に余計な覆いに注意したいと思います。

(⋈◍>◡<◍)。✧♡ 今日もお疲れ様でした。読んでくれてありがとう。