クリスチャン屋根屋(裸の手)

自我からの開放 私ではなく【愛・神・キリスト】

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。コリント人Ⅰ13:13

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんしすべてを信じすべてを期待しすべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。コリントⅠ13:4-7

自我からの開放 私ではなく【愛・神・キリスト】

愛を突き詰めて歩んで参りました。キリストが歩まれました様に主語が自分自身でない時に愛が傍らに居て下さる確信が御座います。私ではなくキリストの愛が皆様を祝福し導いて下さる事が私の喜びでもあります。何故ならキリストは愛だからです。

施工不備のモヤモヤ

愛が主語、神が主語で生きたい屋根屋

お手伝いは必ず致しますがその前に施工不備のモヤモヤに対しての私の見解をお伝えさせてください。
お伝えし易くなります様に抽象的な表現を多様しますがご容赦下さいませ。

—————————
動物は獰猛さを持ち合わせていますが可愛らしくも在り
自然は多くの人間を殺める力もありますが美しくも在り
花は実を結ぶ事を目的としますがその前身は儚くも在ります

普段は隠れていまして目立った一面主張はしませんが、あらゆる被造物は喪に伏したと聖書に在ります通り、人が救われている事実に疎くされている事をまるで知っているかの様に、あえてその本来の姿を変えて人間に付き合ってくれているのではないかとさえ思えるほどであります。

これらの被造物に似て

人間の獰猛さが
人間の力が
人間同士の結び目の入り難さが

時には結果として

あらゆ不始末を犯したとしても
どんな過ちが消えないとされたとしても
今すぐ消えてしまいたいと考えたとしても

全人類の贖罪は済んでいます。
神の御子が
十字架上で【完了した】と宣言されたからです

もう一度お伝えさせてください。

誰が何をどう思おうが自由ですがそれは救いがもたらす開放ではありません。
誰が何をどう思うかは価値観で人間の内面の内側の事ですから内側から内側への開放は物理的に無理だからです。人間の内面に御自分で何かを持ち込んだとしても戸口で払われなくたとしましても受け入れてくれるとは限りません。それがどんな大正義であったとしてもです。(病む時もございますでしょう)

家で例えますと入れる人数や礼儀や身なりには明確な限界が御座います。そこに御自分が入れないとしたらどうですか?(ちょっと止んで病みます)

ですから価値観が人間を解放するのではなくて、救いが人間の内面を本来在った外側に解放してくれるのです。価値観の一面は可愛らしく、美しく、儚くも在りますが動物の獰猛、自然の猛威、花の結果と同じ物を同時に含有しているからでも御座います。

ですが

救いは在り続けるだけでして、自然や動物や花や価値観を変えようとは思っていません。価値観を救おうとしているだけなんです。これがお伝えし難いのです。

なぜなら価値観その物それだけしか好まない場合に獰猛、猛威、結果を描写する表現がその人の価値観への隷属性の一部、もしくは全部を形作るからでもあります。鎖は切れませんがそれが全てではありません。巻かれない事だって出来るのです。

ですので

あらゆ不始末を犯したとしても
どんな過ちが消えないとされたとしても
今すぐ消えてしまいたいと考えたたとしても

反発しなくていいですし
抗わなくていいですし
何処か何かにずっと居なくていい

既に誰にも払えない代価が払い終わったと信じる時
誰でも救われて開放されて行くからです。

いいや、人間は救われていない。そんなことは必要ない。ありえない。努力が必要、と思う方は救いではなくてコンマ何秒かは解りませんが価値観んによる執着や束縛です。それはその方の価値観ですので自由ですが、開放されていませんので家で例えますと入れる人数や礼儀や身なりや善には明確な限界が御座います。

私とて同じです。。。ですので、家の外を出ましたら先ずは空と草原と道が私は好きだし、夜寝る前は星でいい。これは価値では無くて開放ですから価値観を受け入れれるのでありますし受け入れたからといっても自分を誇らなくていい自由も同時に傍らに居てくれます。オートマチックです。半自動。

これが私の魂の領域見解となりますが、何にだって順番が御座いますのでココから全力でお手伝いさせていただきます。どう思われても家出中でもありますからw傷は自分でも付けようがなく大丈夫です。娘達も自立してるしたぶんもう帰らないです。(笑)

(@^^)/~~~それでは皆様。今回もお時間を頂きましてありがとうございました。

愛を考えませんか?

愛を考えませんか?

皆様こんにちは☺
今回の記事は聖書が伝える愛を願わくばご一緒に考えてみたいと思います。愛とはなんでしょうか。こちらを紐解いてみようと思います。

-聖書の言葉にある愛-

愛を考えませんか

-聖書の言葉にある愛-

愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず
自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし
すべてを信じ
すべてを期待し
すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。
(コリント人への手紙Ⅰ13:4~7)

こちらの言葉は愛の性質を教えてくださる聖書の御言葉です。きっと直ぐに頷ける方とそうでない方と色んな感じ方があると思います。難しく考えますと愛と同化無くしてとても真似出来そうにありませんね。💦

たとえ真似できなくても、愛の第一目的は愛の内に留まるという事でありますので、出来ても出来なくても大丈夫ですから愛の内に留まるという要所を網羅させて頂こうとも想っております。よろしくお願い致します。☺

-愛の汎用性の広さ-

-愛の汎用性の広さ-

 -愛の汎用性の広さ-

一般的な解釈では愛する、愛される、愛ある、愛で、愛は、等、愛は主語や述語、動詞や名詞や形容詞に変換されるほどその汎用性は広く在ります。
ですので、私は愛を動詞として視て捉え私は愛する事が出来る。私は出来るとする方がおられてもあたりまえすぎますがそれでいいと思っています。

また、出来るとして後に、出来なくてもいいとも思っています。挑戦者は賞賛されますが挑戦に敗れた方も責められずに認められる傾向が強まればいいですよね。☺

愛はどんな価値観で用いられても問題ではありません。愛は価値観には縛られないからでありますし愛は主語や述語、動詞や名詞や形容詞に変換されるほどその汎用性は広く在り単様・単式・で働いている言葉ではないからで御座います。

-愛は単独で働いてはおりません-

-愛は単独で働いてはおりません-

-愛は単独で働いてはおりません-

こう申し上げますのは愛は単様・単式と共にまた、愛は救いの言葉と共にしていまして、単独での働きではない事が解っているからで御座います。動詞としての愛は出来る出来ないの内に働きますが、愛する事が出来ない方は救われない。愛はこのような働き方を全くもって致しません。

出来る事と救われる事はまた別問題だからです。愛だけに関わらず何であってもどんな事象でありましても一つの事象・事物・対象物など、ただそれだけで完結している真実はこの世界には存在していません。神様でもそれぞれの神格が愛で繋がれているように互いが互いを必要としている普遍性が在るのです。

しかしながら、不実は存在はしていませんが視え難くはされています。たとえましたら人間の物質的な欲求面だけでかんがえますと、水も空気も養分も人間には必要でありますが、喉が渇くと空気と養分は視え難く成る事と似ていまして喉が渇いたと悶えても空気は在ってくれるわけですがそこは極端に視野が狭くなってしまいます。誘惑に打ち勝つ時の術もこれと似ていまして、本当にその欲求しかないかどうかはその時々で吟味されても面白いかもしれません。人の内面であるならなおさらですね・・。それではその原因を追ってみましょう。

-何故見え難く成っているのでしょう?原因を追う-

-何故見え難く成っているのでしょう?原因を追う-

-何故見え難く成っているのでしょう?原因を追う-

人の内面は一つで完結すると繋がりや流れが途切れて裁きや中傷が生まれ易くなります。証明の必要もなく現時点では実際にこの世はそうなりがちになり、多くの方々がその刃に倒れました。刃を持つな!と申されましても、もう既に刃は人の内面には仕込まれていると私は解釈していますので刃が出ても大丈夫な場所の模索が大切だと感じて歩んで参りました。

では、裁きと中傷の順番はどちらが先だと思いますでしょうか?実は順番としましては圧倒的に中傷が先となっております。例外はありません。ですので中傷者が愛と極の位置に存在しているという事が解るのですね。極の位置に在りスタートラインが同じという事でもあります。

中傷者の代表が悪魔、サタン、と呼ばれる霊的な存在の事であります。中傷とは訴えるという意味ですのでその用いられ方は自分と価値観が違うから訴える。それは愛でないから訴える。多数でないから訴える、少数でないから訴える。この場合、訴えは行動や発信でなく内面に沸く感情や思いの事でもありますから理性により表面化を抑える等するしないの問題ではありません。なので何かがそういう働き掛けをずっとしているのでしょうと視る事も適う訳であります。

次に理性だけで扱わない手段を記したいと思います。

-中傷者が極位置に在るのなら-

-中傷者が極位置に在るのなら-

 -中傷者が極位置に在るのなら-

中傷者は自分の存在は関係なく人が中傷し合う事を目的としています。この目的を視るに、中傷者が極位置に在ると認識できてもなにも落胆ばかりする必要はありません。

神様も人間を創ったから愛していまして、それに似て人の価値観もご自分で創った作品の一つですからやはりかわいいのです。ですから御自分の作品や発信に何かしらの断末・途切れを置かれましても、思う程数字が付いてこなくても気にしなくてよくて

愛ではなく価値観で計算されたらしょうがありませんと、そういうものだと違う計算式で解く事も出来るからです。聖書も例外ではなく違う計算式で何度も計算されてきましたが滅びずに現在に至ります。

出る答えの前に計算式が違うのだからと捉え視る事も適い、むしろこうなると答えは気にしなくなっていくのであります。ただ、私が明らかに誰かを中傷していたら違う計算式は出したらダメですがこれは当たり前ですね。中傷した時点で視るべきは自分です

それよりなにより
作品を創ろうとした意志
発信をしようとした意志がとても大事です。
私の感性ではございますが
(この感じが恵みであって後は装飾)
また発信を止めよう!とした意志も大事です
意外に手段は真逆でも愛に順じている時もあるのですね。
(この感じが恵みであって後は装飾)

私の感性で恐縮で御座いますがそうであるなら目的はなされました。これを今すぐでもなく受け入れて視てみては如何でしょうか。評価は装飾なんです。実は目的の装飾なんです。綺麗な手袋や指輪は手と繋がっていますが手より美しくは造られてはいません。装飾がどうして神が創ったあなたより美しいのですか?ここは踏む必要は御座いませんが選択を用いて比べてもいいと思います。

-愛は救いへと繋がる言葉です-

-愛は救いへと繋がる言葉です-

-愛は救いへと繋がる言葉です-

同じ繋がりでも愛と救いは手のひらと装飾の様な関係だけではありません。愛がもし美観や道徳や自己成長のみに関わる言葉でしたらその役割は個人差の内に薄められとても破られやすい物ともなるでしょう。しかしながら愛は救いと繋がる神と人との希望の言葉でもあります。

(コリント人への手紙Ⅰ13:4~8)この聖書の言葉は救いへと繋がって行く言葉で救いも愛に繋がっている言葉であることが大前提であればこそ、人生を賭してもいい。掛けていい。と馳せ参じれる訳で御座います。聖書に在る救いとは憐憫や憐みの解消ではなくて人間の本来元々在れた姿。本質改善への導線でもあるのですね。

ですから、救いから愛を用いた場合、愛せない方が救われないのではありません。むしろ救いはどうしても愛せない。。どうしてもと悶え哭く方へその様な方々に向かいます。ですから愛したから救われた方もおられますし、救われたから愛した方もおられます。居場所が在るから場所を愛した方もおられますし、場所があるから居場所を愛した方もおられます。このように流れだって一方向だけではありません。

-場所と居場所-

-場所と居場所-

-場所と居場所-

ですから今は居場所は無くても場所はもうあります。すでに備えられているんです。では場所とはどのような言葉で表現されますでしょうか?

人のあらゆる価値観が居てもいい場所。自分の価値観はたとえ人に受け入れられなくても、自分は他の方の価値観を受け入れている場所とはどこでしょうか?自分の右の頬も左の頬も痛んではいる。痛んではいるが泣いてはいない場所の事とはどこでしょうか?

愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず
自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし
すべてを信じ
すべてを期待し
すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。
(コリント人への手紙Ⅰ13:4~8)

愛の在ってくれる場所。私はこの場所だと信じています。

(@^^)/ それではまたね!読んでくださってありがとう!

工事と共に人としての安心もお届け致します

工事と共に人としての安心もお届け致します

みなさま何時もありがとう御座います。屋根工房きのした親方です。このページでは工事の安心と共に人としての安心をお届けするにはどうしたら良いかを考えて記事に致しました。お付き合い下さいましたら嬉しく思います☺

工事と共に人としての安心もお届け致します

工事の安心と人としての安心の両方をお届け致します☺

先日の夜は恵みの内に安らいで眠りに付けました。これなんですよ。コレwとホクホクしつつ。何がコレなんでしょうか?私なりに恵みの内に安らぐという精神世界を精一杯言語化してみます。

愛を感じる送信機と受信機

愛を感じる送信機と受信機

最近の私は恵みを感じる時間を一番大切にしています。恵みとはクリスチャンの私にとっては私の内面がどんな状態の時であっても物質的な物以外の方法でも一方的な愛を感じる事でもあります。一方的という表現は絶対に枯れない川の源流の様な働きの事ですので自我による一方向性に寄り固まるという表現ではなくて場所による働きを表現したと感じて下さいましたら幸いです。

また、愛を感じるには愛が内在していませんと感じれないという事でもありますから、丁度、それは私にとりましては、父、御子、御霊の御霊に当たります神様の愛の内在の事を意味していまして、たとえるならそれは実在する送受信機の様な物でもあります。送信機はずっと永遠に愛を発信しています。それは先ほどの川の源流と働きに於きましては同じ表現だと私は捉え視ております。

愛は在ります。しかしそれと同時に愛を感じ取れる受信機をお持ちでない方や、壊れてしまっている方も居られます。愛が無い人に(正確には愛を感じれない方に)感じて欲しいと願っても無理なものは無理ですから御自分を責める事も愛が無い方を責めるのも一端は置いておいても大丈夫だと私は思います。今は無いから無理という事でもあります。あくまで今はです。今後どうなるかは誰にも知らされていません。

ですから、このような前提文が必要な理由は人としてなら人は皆同じだとお伝えしたい想いに寄り、また、私自身も愛に繋がれたのは求め続けたといいましても、神様によります一方的な恵みの内である訳ですから個人差、時間差に付け溺れる事無く、愛を感じれない方を視て裁く事も、頂いたのに勝ち取ったと拳を上げる方を笑う事も、道理に合っていないわけであります。愛は行いよりも存在に働くからでありますね。

自分を大切にするという事

【自分を大切にするという事】

そうしますと、道理に合っていなくても自分を高くして人を低くする流れに引こうとする引力が原罪と呼ばれていまして、長年人類が持ち得ている厄介な性質でも御座います。その性質は罪から出た言葉でしたら、善悪や上下は表層の唯の装いで相対のみ働く関係性で紡がれてといいますか絡まっておりますので、それを解くにあたり、なお一層愛に留まり続ける意識と祈りが私には必要で御座いました。自分を大切にするという事は私にとってはこのような事でもあります。

私だけの神様でないから神様なのです

私だけの神様でないから神様なのです

そんな私は過去にも愛を感じれない方と多く交わりを持ち、疲弊しながらも自分なりにクリスチャンとして受け入れてきたつもりでいました。

ですがここにきて私に在ってくれます内在の御霊によりますと私の目には過去の方々がそう視えたとしても神様は受け入れるもなにも初めから決して裁かずにどんな時でも最善を尽くそうとされていた事。最期までたとえ私が諦めても神様は諦めなかった事。が胸の内にハッキリと浮かばせて頂いた次第で御座います。

神様は何処まで諦めない方かとご説明致しますと御自分が貼り付けにされ殺されても未だ諦めていない方なのですから、これより大きな愛を私は感じた事がありません。言い方を変えますと、私だけの神様ではないから神様なのです。人が創る価値観の様に感情との距離感覚が零ではないので御座います。もしそうなら愛の履行は甚だ難しく人では難解を窮める事もあり、成せば成したでその輝きを私自身で持ちたがる誘惑は止む事は無かったのだと思うからであります。器も大切ですが器を受ける受け皿だって存在しています。

安心は先ず自分から

安心は先ず自分から

ですからこの方にお返しし、この方にこそ全てお任せすれば大丈夫だと心底そう感じる人生に導かれていくのでありました。そうして、自分だけの働きを止めた私は今、安らいでいます。休んでも安めなかった歩みの中で御座いましたが、やっと安めています。プスーって抜けていってます。怖いお面も空気が抜けますとなんだか柔らかく笑んでいる様にも見える時があるじゃないですか。その様な感じと酷似しております。

最後にその様な私の内面をもう少し詳しく表現いたしますと、今、私の内面の家には価値観(家財道具)より勝る神による灯が付いていまして私が消そうとしても、もはや消えない灯火となっています。

内在する御霊は私にまたこうも告げます価値観(家財道具)が少々荒れて壊れても土足でも素足でもあなたの所に誰かが来たのなら、もてなしてあげてね。いや、私と一緒にもてなそうではありませんかと・・。ならば私もと続き応えさせて頂きました。内面の家にある価値観(家財道具)は最初から外に出しておけば壊れずに、むしろアウトドアによるおもてなしに使えそうですねと。

私が答えたとしてもおそらくこの応答も御霊は最初から御存知なのだと思います。だからこの方にこそ、私がもてなせない他の憂いをお任せしたいのであります。私はこの方の最善なら漸く頷けれるんです。この方の最善であればこそ漸く私は納得できるんです。

ですので今の私には私が創った価値観(家財道具)よりもっと大切な存在が複数同時に同化しています。それは神が創ったあなたと神が創った私と神の御霊の灯です。神が創ったのなら決して壊れません。無くなりません。安めます。安んじれます。心からそう信じ、なおかつそう感じ安んじています。

でありますから、

私共は工事と共に人としての安心もお届け致します。

何故希望が在るのでしょう?信仰と愛から紐解く恵み

何故希望が在るのでしょう?信仰と愛から紐解く恵み

みなさまこんにちは。屋根工房きのした代表の鈴木です。このページの記事は店舗理念に伴う文章のご説明となります。どうぞ宜しくお願い申しげます。

私共、屋根工房きのしたは雨漏り修理・屋根修理の専門店です。【聖書】から頂きました【信仰・希望・愛】を理念と発し【失敗も成功も人格形成の糧】へと繋ぎまして【評価・栄光を神様にお返し得る開放】により【隣人共に喜ぶ生業の実現】を結び希望へと向かっています。どうぞ宜しくお願い申し上げます

この文章を読む度に、足袋に、旅にとでもいいますのでしょうか。帆と船と場所へとすすみこの文章に準じての同等の文章作りが出来るかどうかでとても胸躍っております。実生活・実働込みまして共に喜ぶ生業の文章が果たして私に書けるのでしょうか。。と

それでは先ず鍵カッコで書いてあります文面のご説明をさせてください。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。(コリントⅠ-13:13)

何故希望が在るのか?信仰と愛から頂いた恵

【信仰・希望・愛】とは?

私にとりましては死に際にまで離れない想いのことでありました。決して忘れる事が出来ない想いの事だったのであります。今まで誰を信じたのか?誰に信じられたのか?誰に愛されたのか?誰を愛したのか?これらの心情は希望があるので発生していると私は信じています。

さらに詳しくご説明させて頂きますと
未来に希望が無いのにどうして信仰が発生して存在出来るのでしょうか?
過去に希望が無いのにどうして愛が発生して存在出来たのでしょうか?

信仰・希望・愛

信仰・希望・愛

希望が本当に無いのなら愛も信仰も生まれませんし、そもそも必要ないのではないでしょうか?それこそ人の内面や心情は絶望だけでいいはずなんです。しかし人間の歴史上どの時代を垣間見ましても決して絶望だけで成ってはおりません。ですから希望は空間・時間を超えて絶対に在るのです。この様に盲信ではなく偏ってもなく想像したものでもなく合理的に、論理的に私は存在を認識した後に信じている次第です。

こちらを多くの方が信じている進化論でたとえますと水があるから微生物が発生した論理と同じです。この論理でご説明致しますとと微生物の前に水の存在が先となります。ですので信仰・希望・愛の三つの場合でしたら希望の存在が導き。後に信仰・愛と繋がりますが愛が一番尊いと聖書ではそう伝えております。私ではなく愛が希望への導き手でもあるのですね。ですから人は愛に繋がれた時に愛が何かが解りますし、繋がれた私という認識ですから奢り高ぶれない自由が与えられると私は信じております。

連鎖派生して存在し得る

連鎖派生して存在し得る

この様に連鎖派生して存在し得る、心情の内、希望だけが、信仰だけが、愛だけが、虫食いの様に失われる。人の命でそんな不合理な事はありえませんし何らかの外的要因が無ければ本来は起こりえません。本来はです。先ほどの微生物発生のたとえをまた用いますと水と養分が無いのにプランクトンだけが生きている事と同じ位の事なのですから。もしそうなら人間は未来永劫水と養分の奪い合いを繰り返さなければなりません。ですからすでに信仰者の方はどんなに憚られても私を含めましてですがご自分の信仰を無くして欲しくないと願っております。

信仰の盾 御言葉の剣

信仰の盾 御言葉の剣

連鎖派生して存在し得るという観点が無い場合。その様な危うい内面の状態では受けたダメージが緩和される事もなく時と場合によりましたら最悪の結果を招いてしまうかもしれません。ですので願うから拝むになりその後心から何かを信じれる様になれましたら、対象は宗教でも人でもなんでも誰に憚ることなく歩まれていいと私はそっと思っております。信じる。信仰を持つという事がどれだけの恵か計り知れないからであります。

続きまして
【失敗も成功も人格形成の糧】のご説明ですが失敗も成功も結果ではなく成果として扱えれたのなら、成果は糧ですよね。という表現を自分自身に刻んでいます。折に触れてそう。何処に居てもそう。人格形成の一端を担ってくださる成果が果実ではなくてその人の全てを覆う様な結果的な働きを私は毛嫌うからです。結果がその人への中傷に繋がる危険性が高いからです。

店舗理念

いわば果実は人の為に存在しており、私個人への戒めの様な食し方のような言葉となりますが私は失敗した成果なら苦くても食せますが、失敗した結果なら何も口にしたくはなりません。なぜなら結果が私を食すからです。成果と結果の捉え方のお話でありますがキリストは何時もあらゆる奇跡を持って結果を成果に変えてくださいましたからこのような発想に至りました。キリストはご自分に栄光を帰す為に奇跡を行ったのではないのですね。私もこの方に必ず続くと静かにと熱望しております。

御翼の陰に

御翼の陰に

【評価・栄光を神様にお返し得る開放】
それからこの部分ですが。私は自分に縛られたくない。その一念だけであります。開放されていたい。それだけです。人生の目的はそれぞれですが。ただ必ず言える事は自分が自分に縛られていなければ、人を縛る事はありません。むしろ子供の頃の想い出に遺して頂いた学友のお弁当の紐を解いた時の様に何時でも回帰せねばと思っています。自由にあちこちと活きていたいもので御座います。

御言葉ありがとうございます

ありがとうございます(和歌山の現場にて)

【隣人共に喜ぶ生業の実現】
圧倒的な場所の共有の在り方。広ければ広いほど 少々の黒は飲み込まれ中和されていきます。これは本当です。黒には中和、中もって和をもってと繋げれなくはないですが共に複数で喜んでいる時には単純に誰にも負担がかかりません。負担や負荷が掛からないのがいいのです。そうすると【評価・栄光を神様にお返し得る自由】へとループしてそのループの輪が出来ます。その輪は船なら水車。地上なら馬車の車輪の如く滑らかに進めます。そうして進む先にどんな希望がありますでしょうか。進む先にどんな希望が待っていてくれますでしょうか。

お付き合いくださってありがとう御座いました。
<(_ _)>
-屋根工房きのした 鈴木大輔-
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空のキャンプ場はコチラ

空のキャンプ場はコチラ

空のキャンプ場はコチラ

こちらでは写真をみて思いついた短い言葉を綴っています。小さな言葉でありましても時に言葉は重荷をとってくれましたり、肩代わりしてくれましたり、何時も傍らに居てくれる友でもありました。私に在りましてはこちらの聖書の言葉「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」は真実でありました。沢山頂いた言葉を胸に閉まったり、出したりして、大切に共にしていただいております。

名誉は名誉が支えていません

メキメキと戦化粧する空

庇う影と覆う影 影も2つ

へぇ~。それでそれで?

黒が違うと打つ雨も、白が狭いと打つ雨も何時か

大きな感謝をぎゅっと灯すお誕生

みんな還ってくる。

アイデアの元栓

赤血球

自他の価値観に振り回されついには遠心力で飛んじゃう君が素敵!好き!援心力!!翼応色夜祭!!!

加齢による華麗は背景を枯らさない過程

興奮冷めやらぬ今年のお年玉

花嫁婿になった朝

成功→成功→猫!

責めれる時に庇う重さ

屋根伝い行かば不安増し壁は減る

屋根伝い行かば不安増し壁は減る

はしもとかんなさんを意識したはじめて阪奈道

まだやれる

まだやれる

もうむり

もうむり

まだや・・

むりも・・

ココ・カーラ

ココ・カーラ

カコ・カーラ?

カコ・カーラ?

コラ・コーカ!

コラ・コーカ!

我選ばれぬ故、君満笑に

我選ばれぬ故君満笑に

間違いながら辿り着く

おたがいを間違いながら辿り着く

窓車レジスタンス

窓車レジスタンス

送写レジスタンス

送写レジスタンス

太陽系・大音響・愛心層

太陽系・大音響・愛心層

ジターク海

ジターク海

スミッコ照らし

スミッコ照らし

明けない夜も楽し

明けない夜も楽し

御翼に覆われ

御翼の影に涼む

黒い記憶は少しづつ飛んでいく

少しづつ飛んでいく黒い記憶

【雨宿り】詩集

【雨宿り】詩集

【雨宿り】詩集

こちらは【雨宿り】詩集のコーナーとなります。
何か何処かのお役に立てましたら降り始めの雨音と【雨宿り】の様にそっと嬉しく思います。

+++++++

あることうれし

疑って口にできなかった
手にしたけど届けれなかった
だから感じれなかったとしても
在り続ける感謝

忘れやすく壊れやすくて流されやすい
だけどほんのたまに
一つも割れずに届く感謝
どれをなんて選べない
どれかなんてわからないけど
あることうれし
あることうれし

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ブドウ園

ブドウ園

何もかも受け入れるなんて
できないとおもいますので
何もかも受け入れている
場所を見つけれたら
自分もそのままそこにいれて
だれかもそのままそこにいれる
受け入れられるひとはそれでよくて
受け入れられないひともそれでよく
ブドウを食べるか
ブドウを育ててるか
どっちも居れる場所
ブドウ美味しいね
ブドウ園も美味しいね

+++++++

母の日

母よ 母は 母に
水面だけに浮かぶ母の愛
映えなきと礫一つ
水面鳴き揺れど壊れず
ならばと荒く触れるも
水面泣き揺れど壊れず
礫は私でも母でも無くは
何時からそこに居たのか
鏡の様に映えなくとも
鏡の様に壊れぬ母の映えぬ水面

萌ゆる草はたちまち肺に満ちて草野になり
アイスクリームは舌を滑り鼻を駆け上って
また舌に戻る滑り台
甘くて美味しい滑り台を取り合いました
締め付けられる夕暮れには
明日の手がとても大きく繋いでくれ
草もクリームも明日も手も
生きろ、活きろと溢れんばかりに繋いでくれ
母よ 母は 母に
私は丈夫であります。

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タンポポの上

あの時の愛
これからの愛
みんなの愛は
きっとタンポポの上が似合う

+++++++

還ろう

頬まで伸びた芝でころがり
土に還る様に体を休ませてあげたい
目は映る蒼にまたがり
空に還す様に心を休ませてあげたい
還る場所があるからまた
還す場所もあるからここに
全てはあなたの物じゃないけど
全てはあなたの為に備わっています
主の御元そこへ
還ろう

+++++++

御翼に覆われ

御翼に覆われ

御翼に覆われ
恥見えぬ程庇われます様に
痛みは一人でに去ります様に
何時も休く在れますように
今日も確かにと祈ります。

ぱんのみみ

あんな おっちゃん
言いたい事あるねん
あんな おっちゃん
ほんまはぼくウサギ飼うてないねん
ウソゆうてごめん
はずかしかってん
おっちゃん あのな
家、あんまりお金ないから
ホンマはパンの耳みんなで食べててん
おっちゃん あのな
家、おっちゃんみたいな父ちゃんおらんやろ
母ちゃんしかおらへんやん
そやから
おなか空く時 いっぱいあってん
おっちゃん ぼくな
今はもうおおきなったけど
パンの耳はすてんと食べてる
のこさんよう食べてる
パンの耳みたら
おっちゃん思いだすからやねん
お金出しても
こんなおいしいの もうあんま売ってないなおっちゃん
そやそや パンの耳は売りもんちゃうんやったな
おっちゃん
おっちゃんありがとう
ずっと知らんふりしてくれてて
ほんまありがとう
ぼく ぜったい忘れへんから
ずっとや 忘れへん

華と実

想いの種も捲きました
夜露がそれを濡らしました
それで漸くひとつだけ
華となるのを見てました
華はあちこち咲いていて
年中どこかで咲いていて
とても綺麗に誇ります
華は知っています
時に自由の羽音がし
華の中でゴソゴソと
何かしようとゴソゴソしてる
出来る喜び運んで来ては
出来ない哀しみ持って行く
そうして次の華へ発つ時の
自由の羽音を知っている
華は自由に憧れて
強く強く憧れて
どんどん、どんどん、赤らんで
どんどん、どんどん、膨らんだ
華はあちこち実っていて
年中どこかで実っていて
とても美しく愛らしい

 ※一艘一灯※

想い出の溜まりへと
一艘で漕ぎ出し
愚痴を付けたり
文句を付けたり
あと なんだ
まぁいろいろあって
いろいろ付けて
離れて落とす
沈んで行く様をみながら
想い出を釣る
竿がないので
手でやってると
根がかかって
これもうまくいかない
今日の分はもうおしまい
あっというま。
どうしたもんかと
まわりをみると
あそこで
ここで
みな釣ってるぞ。
なんか釣れても泣いていたり
手は痛いのにわらったりして
寝てる人はなにしにきたんだw
二人での人はなにしてるんだww
一艘一灯の集い

自由と開放

自由と開放は違う
自由でも開放されない場所
虚無も閉塞も場所だから

自由は自分でどうにでもなる
だけど開放は違う

自分だけで
全て何とかなると思うのは
自由だけど半分しか開放されてない

君の鎖
僕の鎖は
自身で切れない背中まで伸びてる
ずっと絶えない愛
自らを分けて視るから自分
何を挟むかは自由
背中を守るのは愛

自由と開放は違う
開放は自由を運ぶ
自由は開放を運べない

それはまるで
翼と空と
鱗と海と
足と地と

僕は翼と鱗も足も選べる
君も翼と鱗も足も選べる

空と海と地は
選びでなくて備えなんだ
自由と開放は違う

空と海と地を
人間が創ったら
開放されない
翼と鱗と足は
後から出来たから

あなただから

あなただから

 

頬まで伸びた芝でころがり
土に還る様に体を休ませてあげたい
目は映る蒼にまたがり
空に還す様に心を休ませてあげたい
還る場所があるからまた
還す場所もあるからここに
全てはあなたの物じゃないけど
全てはあなたの為に備わっています

全てを知っておられ
全ての能力を持つ方は
全ての人を受け入れています
失敗も成功も罪も栄光も心も感情も

行いによらず
貢献にもよらず
想いの丈にもよらず
あなただから
ただあなただから
ただそれだけで今も受け入れています

かつて人の目の内に在り
行いに繋がれ
貢献に繋がれ
想いの丈に繋がれた
あなた
心 お優しいあなた

あなたを開放する方に
あなたの喜びを共に紡ぐ方に
世々限り無く栄光が留まり続けます様に

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4

屋根工房きのした責任者の自己紹介記事

(愛の世界観と活きる)

私は1970年12月の生まれです。

屋根工房きのした責任者.鈴木大輔

個人の自己紹介となる記事となります。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。

このホームページを作り出した時期は2011年の6月位だったと思います。それまでは新築業者の孫請けを頂いたり、日当にて他店の応援工事に行ったりしておりまして、その日の糧を頂くという生業で御座いました。その当時は目立った宣伝媒体はタウンページやチラシしかなく独自受注のみでの生活は非常に困難な業種でもありました。

当時の私共の生業は一般的に掲げられる共存共栄とは程遠い現実の中にあり搾取され続ける中(結構辛い事もございました(笑))、ここには喜びも無くて、不安と焦燥しかなくて、とても未来が明るい。その様な心持ちに至る事は出来ませんでした。本当に。

また、そこに到るまでにも実兄が腎不全を患い、実兄はまだ幼き子を育てる段階での口惜しさや苛立ち、どうする事も出来ない焦りが私に伝わりまして、私は私の腎臓の一つを実兄と分け合う事となります。

当時まだ私にもお腹の中の次女やまだ一歳の長女を抱える妻も居りましたので、先の不安と葛藤が無かったと言えばウソになりますが、辛く長い道のりが余りに長きに渡り私を覆っていましたので此処でもう終わってもいいかな。自分が頂いた賜物をここで全う出来たらいいかな。その様な想いも無かったといえばこれもウソになるでしょう。

病室には何も置かずに唯、聖書を取りて読み、静かにその時を待っておりました。それが31歳の時。何れにいたしましても神様の導きと恵みの中に在りまして手術は成功。管だらけの私達。しかしその管が互いの命を繋いでくれました。

とても痩せている当時の写真です(笑)

術後のとても痩せている当時の私(笑) 左長女で右が次女です。

家内の写真です

【女性の職人でもあります家内】診たても作業も私と同等。

家内は出会った当初からよく笑う方で親御様やお友達の方にとても愛されて育ってこられたのだと信じれます。
家内の風無き場にあっても鈴を転がす様な笑い声、
何事も一端は受け入れて笑い飛ばす閃光の様な丹力が
どれだけ私の至らなさの支えとなって頂けたか解りません。

本当に自分でも解らないくらいに、自分では気付けてないくらいに、支えて頂いたのだと感謝しております。それを証するように全く悔しくもなんでもないのでありますが、私より家内を褒める方が多く絶えませんでした。家内は自然と動物をこよなく愛されており、また神様からも愛されている無二の方でもありますし戦友でもあります。

(誰に誉ある事無き試練)

程なくして父が他界します。私との交わりの中で貧困を招く生活を改めてくれ、都度私が教会で学んで来た教えや教義をかみ砕いて共有しておりました父が、今度は医療誤診にて命を落とす事になります。(誰にでも間違いはありますが受け入れ難い事・・・。この上無い出来事で御座いました。)

死に至りました病名は(壊死性筋膜炎)

今でもこの言葉を聞くと哀しみが捲りあがって参りますが、当時の私の力量では改善の糸口が視えない日常生活に良心は次第に麻痺して行き、医療誤診とはいえ父が亡くなってしまえば楽になる。いや、まて、父はもう楽になるべきだなどと、親不孝の極みに到る心情も私は持ち得た事が御座います。

しかしながら、持ち得た心情よりも父を失った喪失感の方がやはり強く、ここで私の人生の転機が起こり出します。もし、父が医療誤診にて命を落とさなければ今の私は絶対に在りえなかったと確信しております。(※現在の私は医療は病を預かる物で命を預かる物ではないと解釈する事により平穏を頂いている次第です。)

父と仕事をしていた頃の想い出の一枚。

父と仕事をしていた頃の想い出の一枚。右が私です。念のため☺

(父居てこその私。同時には奪われまい)

父が他界した後に3.11の震災が起こりました。それまで低賃金で営んで参りましたから、ここぞとばかりに単身関東に向かいます。本当にたった一人で向かいました。

当時は人様に安心を届けるというよりも現状の家庭経済の状況打破が一番の目的となりますから、高速道路をひた走る中で浮かび上がった想いは2つ。もし関東の地にあって生活の改善が計れなければホームページをやろう。(今皆様が御覧頂いているホームページです)もう一つはもう屋根屋を辞めよう・・。この二つの想いが揺れ動いておりました。

そうして小田原を過ぎた時に目の前に黒い大きなとばりが降りて来る感覚を受けます。私は28歳で洗礼を頂いたキリスト者でもありますので、このとばりは神がこれ以上行くな。行かなくて良い。その様な啓示であると信じ。急遽引き返す事になります。それ程までに体験した事の無い現象でしたが決して心地の悪い物ではありませんでした。

道中のSAから家内に電話すると家内は事情を察してくれまして、己の不甲斐なさと相まってか、激しく慟哭を漏らす帰路となります。これが私に信仰を下さった神様に最も拘る大きな出来事でもありました。

イエスキリストの受洗は愛。つまりは人との対等性を意味しております。拝む私を視よ!ではなくて私を拝め!でもありません。唯々人に愛を伝えに来た神であります。

涙の谷を過ぎる時も

帰路にあり、歌い続けたこの賛美歌は一生涯忘れません

ここからいよいよ父が他界した理由の一つ。誤診あるまじき。この想いを強く持ちホームページの作成に乗り出します。遅くまで付き合ってくれた従妹には何時も感謝しておりますし、想いが強すぎて不快な思いをされた方もおられましたらお詫びしたく、また事例を頂く度に熟考の機会を下さった施主様にも感謝の念は絶えません。

2011年頃のホームページです

おもいでの2011・最初は5ページからのスタートでした。なんだか大きな海に出ていくような感じです。当時を思い出しますと今でもワクワクします。

その様な中で私の方向性を決める事になる作品とホームページ作成の少し前に出会う事となります。仁というドラマです。普段TVに全く興味の無い私がこのドラマの虜に成ってしまいました。それは何故か?

神は乗り越えられない試練は与えない

(神は愛だからです)

この聖句(聖書)を用いたドラマだったからで御座います。また家屋の不備を直す者と人の病を治す者と、難度の違いあれどその志にいくばくかの違い無し。私の方向性が確立した瞬間でも御座います。この私念を持って実行に移して行く事となりました。

今また起とう

それから約10年の歳月が流れ、沢山の恵みを頂きながらも闇を知る方、また捕まる方の助け手となるべく様々な言葉を頂き、また起こしてきました。ですが今想う事は、心の満ち足りる瞬間も魂揺れ動く瞬間も永続的ではないという闇の強さを改めて知る事にも繋がって参りました。前を向く前に、壁を超える前に、私が出来る事は何だろうと常に自問致しております。やはり私は取り戻す事をやろう。与えるでもなく教えるでも無い。私は元々人に在ります尊厳を取り戻す役割を果たそうと想っています。それには愛(闇に対抗するにはこれしか無い)自他の意志を奪わせない愛の内に在って自分を働かせてくださいと改めている次第で御座います。

(愛の世界観と活きる)

これが私がここに居る真意でもあり理念で御座います。失いかけた物。失った物は必ず取り戻します。どうか取り戻させて下さい。キリストが弟子の足を洗いましたように。その時キリストがご自分の手を視ず弟子の足を視られていた様に。

こちらの動画は情報開示に拘り続けた私に与えられた役割を証する動画となります。そう思われても致し方ございませんが、ぶっつけ本番でその時の情景を思い出しながら喋っておりますので目が彼方此方と動いていますが嘘をついている訳ではありません。(笑)

自己紹介は以上となります。お時間を頂きまして。ありがとうございました。
屋根工房きのした 鈴木大輔

鈴木 大輔

投稿者の記事一覧

皆様こんにちは。ご訪問ありがとう御座います。
【屋根工房きのした】親方の鈴木大輔です。

このホームページの記事は2011年から全て私達現場の職人達で綴って参りました。雨漏り修理といえど殆ど何も情報が無い時代から皆様から頂く御信頼と共に沢山の実例と気付きに支えられ【必ず直す】という個人的な意志を全うさせて頂きました。ご迷惑をお掛けした事もございましたが本当にありがとう御座いました。

一般家屋を中心としビル・工場を含めた雨漏りの事例や対処方法を86記事、技術考察記事を45記事程明記しておりますので御入用でしたら是非お役立てください。その中にはDIYで直せる雨漏りも混在していますが御自分でなさる際には安全には充分にお気を付け下さいませ。

引き続きまして今後共、何卒よろしくお願い申し上げます。
【共に恵まれ共に喜びましょう】

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