2019年10月13日

外側がいい

最近の私は特に自我の外側を意識して営んでおります。今回の記事も繋げて繋げてどうにかそこに持って行くという内容でどうにも接点が捉え切れないかもしれませんが、柔らかい殻であるが故だと自己分析しております。宜しければお付き合い下さいませ。
(⋈◍>◡<◍)。✧♡

土手に腰を降ろしてふと見ると
河川敷の公園で一人の子が数人の子にイジメられている。
こんな時、怒りと憐れみが混じり合う。
そんな風に生きてきたからだろうか
怒りと憐れみの双角は無意識に立つ
なので少しだけ無意識をずらして拡げてみたいと思いました。

 

事実関係はともかく
ひょっとするとイジメている子は家に帰っても居場所が無いかもしれませんし、イジメられている子はそれを知っていて全身全霊で愛を全うされているのかもしれません。そう捉えるとそこに立つ双角は影を薄めて行く事になり、無いなら次にどうすればいいのだろうかと運び方をを失う事になるかもしれませんが拡がりを見失う事はおそらく無いだろうと感じます。

 

双角といえば余り良い象徴と伝らえれてきた訳ではありませんが観念的に存在しているので、角を取り除いた双情という働きに置き換えてみます。ここで出て来る言葉は過去に私が学んだ事のある言葉が真っ先に登場する事となりました。

右の手がする事を左の手に悟られてはいけない。

(精神がする事を心に悟らせない事も出来るよ)

また、

右の頬を打たれれば左の頬を出しなさい

(感情より自分の愛情を優先させてあげる事も出来るよ)

また、

友が罪を犯したなら7の70倍許しなさい

(現状より希望を見据える事も出来るよ)

 

短い言葉ではありますが、これは教義であり、何度も、何度も私が追いかけて来た言葉でもあります。もちろん挫折も御座います。

拡がりの中にあってはこの様な教義が一人で出来ても喜びは長く居続けてくれない事も実感として知っています。むしろ一人であるならこれを実践する事はお互いの心を見殺しにしているのでそんなに難しくはないでしょう。遮断してしまえばそこにも一時的であれ安寧を得る事は容易であり確かにそれは存在しています。

大きな家に1人で住んでる映画の世界で出て来る御老輩の様に・・。言わば自由なのか不自由なのか御本人すら気付けない状態みたいな感じでなのでしょうか。条件がある自由はある意味不自由を裏付けておられるという事でもあると私は思います。

生まれ持っての特性や個人差の中にありまして先の言葉が招く物は、出来る事と出来ない事が問題では決してなくて、出来ない人を教義で縛り付ける言葉でもありません。心と精神性どちらかを元々失ってる場合もありますし、奪われてる場合もあるからだと思うからです。

それでも、この言葉を生み伝えた神様はこれが出来るという事を今日改めて気付かせて頂く事になりました。今現在でも御自分が発した言葉通りそうされているという事に気付く次第であります。信仰者の営みにあっては自分が気付く事や物は予め備えられている事象であり、ここを誇る事は逸脱した歩みに繋がる事になると感じています。言わば自己崇拝の危険性が孕みますので脈絡無く生まれた事であればあるほど注意が必要だと私は憶えている次第であります。自己崇拝は私個人的には片翼であり避けたい所でも御座います。そこが信仰の出発点でもあったからですね。

神様が何故出来るのか?その最たる理由は神様御一人ではなく常に人と共に臨在されているから出来るのだと認識出来ます。人と同じ様に孤立した自尊心は容易に刃で傷が付き膿みますが、一人では成せない愛はその刃ごと溶けて近寄れないからだと思うからです。ですから7の70倍の許し、左右の頬の痛み、鬩ぎ合う右手左手の一角でも崩れ去る事は逆に希望を失う事になるのではないかとさえ私は思っています。

ここから

(神は愛なり)なら(人も愛なり)両の翼である以上、神様の本質の様に過去のあらゆる過ちはその愛故に問われる事はありません。時間軸が持つ冷却性ではなくて、一瞬の過去は何時でも隣りに存在していますし今も未来も隣に居るからですね。

これも恵であり捉えきれた時の喜びは金銭に寄与する様な事でもありません。あえて神様は不完全であるという印象を創られておられる歴史に於きましても、人がその不完全性により歩み寄る余地を残して下さっているとも捉える事が出来るからです。これも愛です。

そうしますと、出来るかもしれないという可能性の中に私個人の活力がありまして、出来たという結果は外に置き、内に置かない様に今の私に願っている次第でもあります。出来た燭台はテーブルの上に置いて手影を当てない方が1人でも多くの方にその明るさが届くと思いますし。より多くの笑顔を見る事で私個人も満たされるからです。また、私の笑顔を望む方もおられますから。
(⋈◍>◡<◍)。✧♡

 

そういう訳ですので

もし、残されている時間で少しでも出来るなら
燭台が出来たと実感する事があったのなら
それは
神様と人と僕
その喜びは共に分かち合う事となります。
肉まんを分かち合って食した兄弟姉妹の様に
肉まん自体ではなくて
肉まんが生み出す物により注意が注がれて行きます。
少なくても賑やかしぃ食卓で
幾らでも席があり誰でも同じ場所に座れる食卓と燭台を見据えます。

 

(⋈◍>◡<◍)。✧♡ そんな雰囲気・・と匂いと音がある外側が私はいいのです。
せっせとそこに恵を運び込んで飾りますと・・わぁ~ってなると思いますし。といいますか、わぁ~って何時も言っていたいのですね。
また、外側は幾らでも拡がって、息が詰まらないから失った以上の物が取り戻せる可能性があるとも思っています。

我が子をふと・・みていると何時も外側に意識が向いているので、羨ましくもあり、それを守りたいし、わぁ~って言いたいしで。・・私はこの様に、そろそろ内面を外面でケリを付けたいのでしょう。

(⋈◍>◡<◍)。✧♡ わぁ~!!今日もお疲れさまでした。沢山頂く事が出来ます様に。。。

(おまけ)

(⋈◍>◡<◍)。✧♡ 家族で僕の毛で遊びましたwwww