2019年07月10日

光と色の3原色(在り方と出来方)

本日は光と色の3原色から考察出来る事を私なりに書いてみようと思います。
普段から僕は(出来ても出来なくても行ける)この様な言葉を十字架信仰の元にこのブログにて記していますが、今日もまた少し頂いた閃きから考察を繋げてみようかと思います。

 

呼び名は色々御座いますが人には聖書で言う所のタラント、神様から与えられた役割や個性が各々に備えられています。それと同時にその個性が合い混ざっても輝ける捉え方の一つとして、先のブログで書きました様に、あなた方は世の光、地の塩である。この言葉が私にとってとても重要な役目を担って頂けます。あなたが笑っているだけで幸せを感じる人もいるという事で御座います。

 

また、各々一人一人が多色性のある光として受け入れる事が出来ましたら、全ての光が混じり合う時にでも下の図の様に白く白光する事が適います。それぞれの色を保持しながら心は白く白光するという光の特性で御座います。教義に於きましては父・御子・御霊の三位一体をまるで示唆する様な現象でも御座いますね。

これは、(人の在り方)を見ている状態です。

しかしながら、それぞれの個性を尊重しながらでも、実績や結果(出来る。出来ない)に心の眼が集中してしまいますと混ざれば混ざる程、その闇は大きくなってしましいます。これは光ではなくて、色の特性で御座います。

 

光は在る物で 色は出来る物 この様な違いがある訳ですね。

 

私は出来る、何でも出来る、これは未来への布石や鼓舞となりこの時は光として輝いておりまして、とても有用では御座いますが、私は出来た、私は何でも出来た。これは結果から自分や他を見る色ですから、時に人からは黒く映ってしまうかもしれませんし、その証は人からずっと求め続けて行かなければならないかもしれません。逆に私は出来ない、何も出来ない、これも卑屈その物の色付けですから自分自身が同じく闇に捕まったり、それを見る人には黒く映ってしまうかもしれません。

 

出来る出来ないはあくまで結果でありますから、そこからの色使いは出来るだけ少ない方が私は闇に捕まり難く良い方向に拡散すると思っています。ですので出来る出来ないは一先ず置いておきまして、光の在り方や受け入れ方に注視する歩みとなるのでしたら、傲慢や憐れみに捕らわれる事無く歩めるのではないかと考察しております。出来るからといって誇りませんし妬みませんし、出来ないからといって卑屈になりませんし憐れまない。その様な色使いが減れば減るほど・・・

(在り方)

これに近づいていけるのではないかと私は思っています。

そこから、人の在り方を受け入れれば受け入れる程、白く白光して行くのですね。この様な気付きを頂きましてとても嬉しく思っています。わりと頑張りましたけど自力で白光する事は私にとってはとても難しかったからで御座います。

 

また、受け入れられても、そうでなくても、この記事の栄光は私にではなく、全てを信じ愛してる方やそれを望む人に届きます様に。また、僕もこう在れます様にお祈り致します。(^^;)

 

(@^^)/~~~今日もありがとう御座いました。