2019年03月31日

一歩でも

この写真は今居る家のベランダからの風景です。
サンルーフのパネルが吹っ飛んで行く様を昨年の台風の折眺めていました。
パネルは人に当たらず空き地に落ちておりましたので安堵しておりました。

ほんと・・これよかった。(^^;)

このパネルの修理を私は今でもずっと躊躇しておりまして・・
その理由は星空が椅子に座ったまま見れる様になったからです。
ぐうたらします(笑)

そうして
よくお聞きします御言葉
失えば新しい何かが入ってくる。
僕もこの機会を与えられてホントそうだと思います。

そこから少し僕なりに突き詰めますと
以前より大きな新しい何かが入ってくる場所が広がる。
そんな捉え方も出来ます。

共感もこれに似ていて
元々あった物が湧き出た
気付かされたのではなくて、元々持っていた物が露になった
この場合は失っていた物が帰って来たという事なんだと思っています。

そこから
元々無かった物が響き合うのが共鳴とするならば
例えば
撥と太鼓
叩く方は叩かれる方の事を余り深く考えていませんが
叩かれる方は叩く方を深く考える事が出来ます。

その叩き方じゃ鳴らないよ。
この様に考えて動き
太鼓の方が移動、もしくは的が少しデカく成れば共鳴が生まれる可能性が広がるかもしれません。
叩かれ過ぎて破れても
次は破れない皮を張るにはどうすればいいか考える事も出来る機会と捉えれます。

撥に寄り添うとは
皮張りに挑むとは
今の自分では到底出来ない事を見据える事なのかもしれません。
今の自分では辿り着けない場所に向かう事なのかもしれません。

とは申しましても
皮の張り方を忘れてしまう程の時を過ごす事も御座いますから
穴が開いたままの時も御座いますので
その時には多くの方に二重三重の皮を張って頂いてもいいと思いますし
穴を抑えてお1人で奏でてみてもいいと思います。

その様な事が
出来ても、出来なくても、今でなくても
すっと出来なかったとしても
僕にとっては浮かんでいるデッカイ夢が見れる場所がある事は生きる活力となって、一歩でも愛に近づく希望への導となっております。

今日頂いた空の中のクジラ雲の様に
私にある明確な限界があったとしても
トテツモ無くデカい限界の中を泳ぎたいと思うのでした。
デカい夢や想いが存在出来るデカい場所が在る事が何よりも嬉しいのです。

一歩でも、一歩でも、また一歩でも
連呼しながら・・眠りますw

(@^^)/今日もありがとう御座いました。