2018年11月22日

理想と理想郷

皆様こんにちは。
今日も見に来てくれて、ありがとう。

今日は、先のブログでちょこっとだけ書いた救いの実感について書いてみようかと思います。
上手く、表現出来たらいいな。

といいますのは、救いの実感って完全にキリスト教用語でしてね
その前提だけで、拒否反応が出る方も居られる事も重々承知した上で綴ってみようと思います。

僕が、救いの実感をお話する上で
先ず必要は言葉に働いてもらおうと思います。

その言葉とは  理想

この言葉の真意を皆様はどの様に捉えておられるでしょうか
色々おありでしょうね

私もこの言葉を持ってまして、過去に教会で出会った素晴らしい雰囲気をお持ちの方の様になりたいな。
なれたらいいな。その様に想いつつ、その為の道筋や努力を沢山して来たつもりで御座います。

それで、どうなったかと申し上げますと、
成れませんでした。(笑)

成れませんでしたという理由は、(自分は自分、他の誰かでは無い)
この言葉もとても素晴らしいのですが
僕が成れなかったという理由はこの言葉ではなくて

理想を追うと競争原理が無意識に働くからという事が専らの理由なんですね。
昨日の自分より今日の自分。
この言葉も素晴らしいです。
それだけを隔離して営めたら、それは、それで素晴らしい事です。

しかし、僕の場合はそうでは無く
長年の間、自己評価と他者評価が何時も付いて廻って来ました。
これは文章にしますとお恥ずかしいお話ですが

理想を追えば追う程、理想という秤が出来上がって来るのです。
この秤が自分を如何に理想から遠ざけて行くかを垣間見る事にも繋がって行きました。

ずっとそうやって生きていますと、ある時から、
僕は理想の為に生きてるんじゃないよなと気付く事にもなります。

先日のブログでも記しました通り
理想の究極体は、言葉その物に成る事だと僕は思っていますが
それは、人の身では無理だなと気付く事になります。
理想の証明がどうしても必要で、その証明を集める為の歩みは僕の理想では無いからです。
それに言葉そのものは、そもそも、理想を追い求めてないよなぁ。
なんて思ってます。

ああ、なんだか凄くややこしいですね。(笑)

そこで、救いの実感は理想の中に存在していないと僕は捉えまして
理想という言葉にもう一つ付け加えます。

理想郷

理想と理想郷ってちょっと雰囲気違いますよね。

理想が独歩の道とするならば
理想郷はそれを含んだ集合体で、必ずしも一つの道で出来ている訳じゃ無く、あらゆる理想がここに在りその存在を包容している言葉と感じる事が僕は出来ます。

西遊記のユートピア、天竺、御国、天国
この様な言葉と真意は同じだと思います。

理想を価値観とするのならば
理想郷は世界観。

かなりデカいです。無理に歩まなくても、立ち止まって憩っていられる場所でもあります。
そして自分の心が何処を観ていても、診てしまったとしても

この郷に必ず還って来れる。
郷という感覚は誰しも持っていて、そこで営んでますと
教会で出会った僕の理想だった方の雰囲気が無意識に出るのでしょうね。

理想郷から理想を生み出せるけど
理想から理想郷は生み出せない。

救いの実感とは常にこの理想郷を持っている事だと僕は思います。

これは何も信仰に根付いた事では無くて

極々身近な人の持つ一滴の幸福感。
これが、僕や皆様の持つ潤いの中に落ちますと
波紋の様に広がって行き
世界観を形作ってくれると思います。
理想郷の形成にも繋がると僕は思います。

そういう訳で
これからも出会う方々の幸福感を僕は、とても大切にしたいと思います。

(^^;)