2018年07月17日

役割と愛

皆様こんにちは
暑い日差しが続きますけど愛す美味しいですね。
ここは気の向くまま書いてるブログです。
今日は、役割と愛に付きまして書きました。

愛。
言わば、焼き鳥を突き刺す櫛、
焼き鳥が美味しいのは食べれない櫛があるからです。
食べれない櫛の部分を吟味する事は殆どありませんけど。
愛。
言わばラーメンの器。これも還り見られる事が殆どありません。
それよりも匂い。熱。のどごし。口当たり。これらに注目が集まります。

この様な事柄一つ取り上げてみましても、千差万別で人が養って来た感性は違います。
環境と従事滞在してる時間によって全く違ってきます。

新生児を受け持つ方の感性
日常が死の葬儀屋さんの感性
日常が活きるのアドバイザーさんの感性
職人さんの感性
保母さんの感性
政治家の感性
製造者の感性
消費者の感性
子供達の感性
悪徳業者と言われる方の感性

数え出すとキリがないです。
でもちょっとだけですけどキリつけようと思います。
以下の文。これは私の古くても何時も新しい学びです。
御参考になれば幸いです。m(__)m

頭は手でないからといって手をなじりません。
手は頭ではないからといって頭をなじりません。

眼は?
足は?

全ては繋がっていますので、なじり合いません。
手が癌化したら、いきなり切り落としますでしょうか
病院に行って何とか切らない方法を探さないでしょうか

足はその為に動きます。
頭はその為に思考します。
眼はその歩みを確かにします。
耳も鼻もその道のりの危険を避ける為、
聞き分け、嗅ぎ分け、働きます。
血液は?

役割は皆、全く違います。
体と同じ様に
家族でも、コミュニティーでも、国でも、世界でも、宗教でも同じです

喜びも痛みもここに同居しておりますから
それぞれで区切らず
それぞれを想えると素敵です。

天命を全うするという事はそういう事だと思います。

私の知り得る所によりますと
何を成したかより、どう生きたいのか
此処に自由があります。
成したいが活きたいを阻害する時もあり
阻害感が何時までも居座って活きたいの邪魔をする時が多々あるからです。

誰でありましても既に何かを成しています。
ですから自由と尊重は絶対切る事は出来ません。
切るとお互いに成り立ちません。

この切断を可能とする刃とは何でしょうか
何時までも大事にしている不自由です。
また、何時までも捨てさせない様にされている場合もある古い自分です。

例えば、私に置き換えますと
誰かが私を愛さなかったからといって私が愛を捨てる理由にはなりません。
誰かが誰かを陥れた。その様な事でも私が愛を投げ捨てる理由にはなりません。
人間性に触れる時も、ミカン箱のミカンの一つが腐ってましたらその一つを取り除き食せば良いのであって、沢山の美味しいミカンを全て捨てなくても良いと捉えます。同じ様に、今日一日辛い出来事に見舞われても、全ての一日一日が輝きを失う様な事にはなりません。

この様に
誰も皆、超度級で広い所に居て既に何かを成しています。
成してきたはずなんです。

所属する領域を問わずして
家族でも、コミュニティーでも、国でも、世界でも、宗教でも
役割は皆、全く違います。似ていても全く違います。
五体・五感の働きとした場合でも、そこに何ら差は生まれませんので
ここは何としてでも、すり替えられない様にしています。

その様な訳でして
私は、足の裏の分厚い皮を全うしています。
一部分限定ですが、実際に非常に分厚くライターの火でも少し位は大丈夫です。

冒頭に、古く新しい学びと申し上げましたのは
古い自分の中に居たあの時
あなた方は
聞いていても聴こえず。
見ていても視えない。
この言葉通りだったからです。
なのでもっとデカくて広い所に行こうと思いました。

私の知り得る所によりますと
何を成したかより、どう生きたいのか
此処に自由があります。
自由と尊重は絶対切る事は出来ません。
切ると成り立ちません。
自由と尊重は常に愛で繋がれています。
五体・五感と同じ様にです。

次に私の愛の捉え方。。。
私と愛は別物です。頂き物だったからです。
愛情と愛もまた別物。愛情は作れますが、愛は作れません。
愛情は条件を付けますが、愛は善悪問わず条件を無視します。
常に見失う事無く、傍にいて愛が働いていて欲しいと祈っています。
私では無く、愛に栄光が在り続けます様に祈ります。
愛は無限で私は有限だからです。

そして毎日、何時も私は想いを寄せています。
私が活きる為に死に渡された方、愛その物を想う時
死もまた活きる。
一つの死が多くの活きるを作り出しています。
テトラポットと荒波の様に愛は死と隣り合わせですので決して甘美な物ではありませんが
後ろに控えている活性と営みは愛でしか作れません。

その様にして生まれて来る笑顔という物は本当に尊い物です。
軽んじて見ても良いですけど
そうするといざ自分に死が襲って来るときの準備が遅れます。
それでも尚、愛は誰かを用いてその様な方の死を包む準備をしています。

還り見られる機会も少ないですが
まるで焼き鳥の櫛。ラーメンの器の有様とよく似ています。

この様なブログに限らず
毎日の様に、何時も想える一つがある。それが何であっても素敵な事ですね。
握りしめた手垢まみれのそれは、きっとこれからも活きるを作ってくれると思います。
どこへでも行けて、苦しい時の助け手となってくれると信じています。

苦しくて、枯渇したら悪態を付いたり何もかも自分で埋めないで、身近な人が愛を注いでくれるのを待っても良いと思います。
皆、どこまで注いで良いのか解らず好き勝手に注ぎますので、溢れてこぼれてそこから愛の器は広くもデカくも成って行くと思います。
皆が皆。愛が宿る神殿です。そう祈ります。

今日も暑い中お疲れ様でございました。
最後までお付き合い頂きまして有り難う御座いました。
m(__)m