2017年07月18日

最初は何もかもが闇で

22年前位ですか。ある野外集会に参加した時のお話です。

芝生の上に皆座りまして、さぁ今から先生のお話を聞こうとしたその時、私達と先生の前をあえて横切る方がおられました。

どう考えても、他に通る所もあり態々私達の前を横切らなくても良いのにです。

その時の先生の顔は多少赤らみ。そして、この世には生きているのに死んでいる人がいます。

ハッキリと重く、横切った方にも聞こえる様に話されました。

その方がその後、この言葉をどの様に受け取られたのかは解りません。

今となっては、集会嫌いの人がいても居なくてもどっちでもいいかなと軽く捉えておりますが、どうして知らない人にあれだけの敵意を投げられたのかなぁ・・。あ、通行人の方の方です。

 

年月が経っても先生の言葉が沸いたり消えたりしておりましたので、これを紐解かねば、ねばっこく。と思いました。

先ず、

この言葉は乱用出来ません。他人を計る計りは、地面には置けず、先ず自分の首に鎖でぶら下げなければ成らないからです。

そうすると、事象の重さ・軽さ問わずして首が締まります。(笑)オぇってなります。

オェッてなるだけならまだしも、内容物とかだしちゃったらそれこそ辺り一面、、。

辺り一面ならまだしも、内容物が多かったら人様の靴にも掛かっちゃって、、。

人様の靴ならまだ良いけど、溜め込んで一気に放出して顔なんかに掛かった日にゃぁ・・。

あなた!で御座います。

 

前置きはこんな感じ。

理解が遅いといいますか、ちょっときついので避けていたこの言葉の真意を私なりにですが漸く知る事が出来たので御説明致します。

 

この世には生きているのに死んでいる人がいる

これは重苦しいですけどやっぱり事実です。隠した所で有るを無いには出来ません。

でも、

この世には生きているから生きようとしている人

一杯、一杯います。本当に。

 

ここからが、重要なんですけど

生きているのに死んでいる人を作ったのは生きているのに死んでいる人です。

もう一度いいますが

生きているのに死んでいる人を作ったのは生きているのに死んでいる人にずっと触れてたからです。

 

言い方は悪いんですけど、ゾンビの増え方と同じで御座います。

※決して生きているから生きようとしている人はゾンビは作りません。

死のうとしてないから当たり前です。

 

※対処方法※

 

生きているのに死んでいる人が元に戻る方法は、生きているから生きようとしている人を視るのもいいですが、先ず、どこで、どうして、生きているのに死んでいる人と触れたのかを思いだす事だと思います。触れた理由は何ですか。孤独ですか。孤立ですか。貧しさですか。富ですか。薄ら笑いですか。蔑みですか。契約ですか。

 

自分がゾンビの王でない限り、必ず接点があるはずです。

その接点を切る。何が何でも切る。孤立しようが孤独になろうが切る。

壊死してる部分は切り落とす。

イジメられている子はその環境を切る

死にたいと思う方もその環境を切る

生きているのに死んでいる人に付き合い続ける必要なんか皆無じゃないですか。

もう充分労え切れない程頑張って来たじゃないですか。

先ずは自分が生きないと、大事な人を、例えそれが、生きているのに死んでいる人でも生かせないじゃないですか。

この様に考えますが、最後の一文は羽でも生えてないと超えれない程のハードルの高さがあります。

目下挑戦中。なので羽重要・超重要。

 

 

※※※※※※※※

 

 

 

最初は何もかもが闇で

例え孤独であったとしても

小さくてもいいから火を起こして

お湯を沸かして

焚き火の前でコーヒーをススル。

毛布を被りながら

朝が来るまでじっと待つのも手。

じっと待つ君が支えてくれます。

ここまで来れば、きっとずっとあなたの眼光は落ちない。

落ちる訳無い。。。

 

この様に想いを馳せます。

 

夜が明けてふと見ると、ヘンテコな馬車に乗ってる麦藁のおっさんがいるかもしれません。

その時はスミマセン。私も精一杯の同類です。生きようとしています。馬車が欲しいならあげます。(笑)

 

なま意気とも取れるし、

生き生きとも取れます。

生で息していきいき。とも

(`・ω・´)ゞ 本日も読んで頂いてありがとう御座いました。